暦と改元

顧 歓は、420年頃 - 483年から493年のひと。
厩戸王聖徳太子)は574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)-推古天皇30年2月22日(622年4月8日)のひと。

『夷夏論』とは、「夷」(異民族)の法である仏教と、「夏」(中華民族)の法である道教との、優劣関係を論じたものである。そこでは、消極的に破悪を実践する仏教よりも、積極的に興善を行なう術である道教の方が、優れているとする立場に立っており、夷狄の法である仏教に従う要のないことを論じている。

顧歓 - Wikipedia

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枕草子』が「教書」として、何を示しているか。

清少納言のなぞの60進法の何かヒントがないかと『A History of JAPANESE MATHMATICS (日本数学史)』(David Eugen Smith,三上義夫共著/1913年)と『日本數學史』(遠藤利貞遺著/1918年)を見てみた。

三上義夫 - Wikipedia
David Eugene Smith - Wikipedia
David Eugene Smith (1860 - 1944) - Biography - MacTutor History of Mathematics
遠藤利貞 - Wikipedia

そうすると、本邦で暦を採用したのは推古天皇で、初めて中国歴を用いたのは持統天皇らしい(元嘉暦。持統天皇6年/西暦695年)。保井(渋川)春海は、神武即位年、仁徳11年、舒明7年に暦元があったと言ったらしい。

渋川春海 - Wikipedia

『皇和通歴ニ依レバ、晩古ノ暦法は、皇極天皇二十年ヲ元トシ。之ヲ行フ四十九年、持統天皇六年ニ至リテ、暦天ニ先立ツ八刻ト、当時此暦法無キヲ惜シム者ナリ。蓋シ中根元圭ガ我ガ古代ノ暦法ヲ三段ニ分チ、上古ノ暦元ヲ神武天皇東征ノ年トシ。中古ノ歴元ヲ仁徳天皇十一年トシ。晩古ノ歴元ヲ皇極天皇二十年トセシハ、其故ヲ知ラザレドモ、必ズ因ル所アリシナラン。保井春海ハ』(『日本數學史』)

斉明天皇 - Wikipedia

烏は神武、雁は仁徳、舒明に関係が深い。
蛍は誰だろう?日本書紀の初出はニニギに関してである。
農耕神で日向から火を持って帰る。

ニニギ - Wikipedia

万3・4番歌、狩りの歌と舒明天皇即位について - 古事記・日本書紀・万葉集を読む

第34代天皇 舒明天皇 | 日本の歴史を分かりやすく解説!!

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万葉集/第一巻 - Wikisource

物部氏ニギハヤヒ系らしいが、ニニギとの関係が判然としない。
清少納言など、蛍を喜んでいるが、穂垂(ホタル)星を「ホコ星」として恐れている。
ただ、これは珍しいタイプらしく、ふつうは豊穣の前触れとして喜ばれたらしい。
これについては、蛍の神秘性が蘇我蝦夷の霊と結びつけられる考え方もあるらしいから、こういったことだろうか?
よくわからない。
ただ、どう見ても舒明にフォーカスがあたってるようだが、なぜだろう?

母である藤原詮子は、飛鳥時代天武天皇の皇女十市皇女の11世孫にあたる。

一条天皇 - Wikipedia

 

源氏物語』が60巻あったとする説もあるが、干支 - Wikipediaを見ると、比和となるのが、5(十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土) ,26己丑(十干の己は陰の土、十二支の丑は陰の土),35戊戌(十干の戊は陽の土、十二支の戌は陽の土),43丙午(十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火),49壬子(十干の壬は陽の水、十二支の子は陽の水),51甲寅(十干の甲は陽の木、十二支の寅は陽の木),52乙卯(十干の乙は陰の木、十二支の卯は陰の木),54丁巳(十干の丁は陰の火、十二支の巳),56己未(十干の己は陰の土、十二支の未は陰の土),57庚申(十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金),58辛酉(十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金),60癸亥(陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の亥は陰の水)とあって、54は九紫火星 - Wikipedia五行思想 - Wikipedia)を引き当てる。

薫28歳の夏の話。

夢浮橋 - Wikipedia

ただ、500年後、仏教徒紫式部がどこまでそれに依拠したかとなると

仏教儒教と同じ5世紀から6世紀に日本には暦法などとともに伝わり、律令により陰陽寮という役所が設置された。

陰陽五行思想 - Wikipedia

よくわからない。

shinto-bukkyo.net

まだ、枕草子が「7」に拘ったので、「9」に拘ったと考えたいが

仏教(特に浄土教)では、衆生の機根の違いによって、同じ極楽浄土へ往生するにも、9つのパターンがあると『観無量寿経』に説かれている。またこれを九品往生ともいう。

九品 - Wikipedia

推古時代ですら竹木による計算も行われたということであり(聖徳太子がソロバンの元祖をもたらした伝説は根拠がないらしい。)、古代の指折り数えて「9」をひとまとまりとした(10から位が上がる。)計算とは時代を画す(そ、もも、ち、よろずと4位ごとに位上げを行ってかなりの数を数えた。10憶なら、そよろずよろずである)


白膠木(ぬるで)の木で作ったといわれる四天王仏で物部守屋を討伐した。
四天王は火焔の光背を背負っている。

光背 - Wikipedia

枕草子』の冬の段を思い出さずにいられない。物部は軍事氏族である。

物部氏 - Wikipedia

ここらへんが蛍(ニニギ)はよくてもホコ星(四天王)は怖いということだろうか

高野山霊宝館【収蔵品紹介:仏に関する基礎知識:四天王】

かなりこじつけである。

本朝世紀』長保元年6月14日条によれば道長が前年の祇園天神会の行列で出された山鉾が、天皇大嘗祭で用いられるものそっくりに作られていたために道長が同年の祭りの停止を命じたところ、天神が怒って報復を示唆する詫宣をしたために道長がやむなく祭りを許したことが記されている。

藤原道長 - Wikipedia

 

どういう争いがあったかはよくわからないが、

東国の富士川の大生部多という人物が、アゲハチョウの幼虫を常世神として祭れば富と長寿とを得ることができるとする民間信仰が主唱し、巫覡がそれを広めたものだから社会不安が生じた。そこで葛野の秦河勝が懲らしめて制圧したという。この常世神信仰について、下出積与「皇極朝における農民層と宗教運動」(『史学雑誌』第67編第9号、史学会編、昭和33年)

皇極紀の新興宗教 其の一 - 古事記・日本書紀・万葉集を読む

アゲハチョウの幼虫を祭る民間信仰が制圧されたのは興味深い。

etervalu.com

固有種らしい。モンキチョウは在来種だが、モンシロチョウが外来種か。

日本の外来種全種リスト - 侵入生物データベース

 

螢狩の唄考 3 ~螢狩の唄と田の神について~ 後藤好正