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どうもうまくまとめられなかったが、
清少納言と紫式部に関して、思想対立の基本的枠組みとしては、中原思想/仏教思想なのであろうが、なかなかきれいに現れてこないジレンマがあった。
『源氏物語』を見ても、通読していないが、終わり方に陰陽道の影響があると考えたら「綺麗」で、仏教に依存したはずの紫式部にそれが在り得たか迷ってしまうのであるし、
ちなみに、藤原道長の法政寺にしても、その伽藍(平面図)を見たところで、よくわからない。聖徳太子の時代にすでに、「曲器」もあって、(それとは別に)三平方の定理も計算できたのだ。
条理制はそういう時代の産物であって、「小数」「分数」と言っていなくてもそれに類することを指向したはずであり、「無理数」と言っていなくてもどうにか近似しようと努めたはずである。指折り10進法を駆使して10億まで数えていた時代から各段の進歩を見せていた(「そ(十;×101)」「もも(百;×102)」「ち(千;×103)」「よろず(万;×104)」の4位ごとの循環による位上げは合理的であったが。釈迦が偉いのは、巨大数の考案によって、筆書のコストを下げたからであるーただ、巨大数の概念のみで、釈迦の巨大数計算を見たことがない)。
両手(のみ)で掛け算ができないことはないが、実際に行っていたかは不明である。筆算は画期的なのであった。「文物」とはそういうパッケージのことであっただろう。
永い時間を表していた「劫(カルパ)」に対し,大量の数を表すインド的表現としては,「恒河沙」(ガンジス河の砂)が有名である。平安時代初旬 (823 年頃)に書かれた『日本霊異記(にほんりょういき)』に,既に次のような使用例 (千手経を念誦する修行者を殴打し悪死の報いを得る話)がある。
ようやく雄略が出てきた。
『枕草子』の時代には(その直前)、すでに「巨大数」が文物として理解されていたのだ。紀元前300-100年の古代バビロニアの例にある通り、条里制(60進法)は巨大数の一分野だったのだ。
そして、藤原道長までは、 による施政が行われていたのであるから、その参謀たる女官にも教養としての巨大数理解があったと考えてもよいのではなかろうか。
『源氏物語』のように、「男」「女」「あはれ」「仏教」だけでは、、、「仏教」は当時の「総合大学」であったから、土木もなんでもしていたが。
日本霊異記は、日本最古の説話集。奈良末~平安初期に成立した。巻頭の第1話は、雄略天皇時代(5世紀)の奇談。以後約4世紀にわたる説話120篇ほど。記紀・万葉集だけを上代人の全容と信じていた者は、上代の半面を霊異記に見て驚愕する。
日本霊異記(下)は、中巻の時代の後を受け、奈良時代末期稱徳天皇(764)から平安時代初頭嵯峨天皇(822)にわたる説話を載せる。全39話。凄惨激烈な血族間の政権争奪と権力闘争―その結果として、平城京から長岡京遷都、さらに平安京への再遷―の難世相が説話の隙ににじみ出ている。
清少納言は雄略を推してはいなかっただろうか。
ワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めておられた時代に、文書をつかさどる役所に仕えた人、その名はムリテが、8月に製錬用の鉄釜を用いて、4尺(約1メートル余り)の立派な大刀を製作した。
雄略の信仰は鵜だったろうか。
アブに刺されてトンボに助られたらしい。いきなりあらわれてバリバリ食うとは、トンボはオニヤンマだったろうか?
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前期には、日本優位倭劣位説を、後期には、日本劣位倭優位説を。
倭がトンボで大和で雄略系かつ、前期を遣唐使の都合に分けるなら
前期は、舒明系優位雄略系劣位、後期は、舒明系劣位雄略系優位
だろうか。
完成と奏上は945年(開運2年)6月[2]
新唐書の成立時点で、唐は滅亡している。
北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰[1]、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。
大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
前期には、天武優位天智劣位説を、後期には、天武劣位天智優位説を。
どうも烏の伝統は天武が再興したようだ。
アマテラス信仰を整理して、鴨ならぬ烏をシンボルとした。
業績が多すぎてよくわからないが、赤がシンボルカラーだったらしい。
雁に関係があると思っていた仁徳は大雀命だった。
舒明は蜻蛉、大和推しで、
三条の母の父藤原兼家が『蜻蛉日記』を著し、その子道隆の子伊周と争ったのが(道隆の弟)道長か。
よくわからない。
古代の天皇を見ていると。有力だったのが、
神武、雄略、仁徳、天武、一条
あたりで、それ以外で画期的だったのが、
推古、皇極、天智、醍醐
だったろうか。一条、醍醐は適当である。
そうして、清少納言の推しが
1 神武、天武、一条
2 仁徳
3 推古、雄略、皇極
だろうか。これは、烏>雁>蛍(その他虫)、風の順に考え、適当に割りあてただけである。嫌いなのは、雄略よりも天智かもしれない。醍醐はどうしようか。
こういうのもがあるにはあるが、肝心の「伊勢」の方を
『枕草子』の第82段に「あやしう いせの物がたりなりや」とあるように[16]、この時代で既に「伊勢物語」をもじった「いせのものがたり(僻の物語)」という言葉遊びがあり[16]、「いかがわしい物語」や「えせ物語」という意味で用いられていた
そもそも評価していない。「急用」と解釈するにしても、そもそも「みやび」(知的)じゃない。むしろ、『源氏物語』に影響を与えている。
遺りたる二 祖を尊び宗を敬うことは礼教より先にしなければならない。それ故天皇は上帝をまつり、六宗を祀り、山川の神を望り、神々を祀りたまう。然れば天照大神は祖であり宗である。尊きこと並びなし。従ってそれ以外の諸神は子であり、臣であるので誰が天照大神にあらがうことが出来ようか。延喜式によれば神祇官から案上の奉幣の順は諸社の次に伊勢神宮は置かれている。
遺りたる三 天照大神は本、帝と殿を同じくしておられた。仕え奉るわざも君と神は一体であった。天上より初めて中臣、斉藤の2氏は相共に日の神を祈り奉る。猿女の祖も神のいかりを解いていた。従って三氏の仕事は相離れるベキではない。しかし伊勢の宮司はもっぱら中臣氏が任じられ、他の二氏は預からしめず。
遺りたる六 神代より初めて、中臣、斎部の神事に仕え奉ること分け隔てはなかった。大化の改新このかた、勢いが一方に移る。
坂田三吉
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成立年が807年と重要である。
ここにいたって、天武と天智の関係は、中臣(藤原)氏と忌部(斎部)氏の関係になって、それぞれの先祖が天児屋命(アメノコヤネノミコト)と天太玉命(アメノフトタマノミコト)であるらしい。
前期には、忌部(斎部)氏優位中臣(藤原)氏劣位説を、後期には、忌部(斎部)劣位中臣(藤原)氏優位説を支持することに成るようだ。
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/201/201971108.pdf
さて、こうして『源氏物語』に帰ったので、陰陽五行説から言うと。
光源氏は太陽で、紫は太陽光、「匂宮」で光源氏の子孫を描くのは、釈迦が太陽の子孫であることからで、薫は釈迦がよい匂いをさせていたことからだと思う。
釈迦族も日種と伝えられる
実は、釈迦は、6本の白い牙を持った像が右側から体内に入る夢を見て解任したらしい(これは、『源氏物語』では、柏木のエピソードに相当するだろうか)。
そうして、54帖で終わり。
なんだ、ちゃんと、春に「明け」、夏に蛍、秋に虫と伊勢、冬に「夙に(若い)」も出て来るし、『枕草子』を意識しているではないか。
それに、光源氏の正妻は「葵の上」「紫の上」で、ならなかったがこれに「朱雀の子」じゃないか。
小野では深く繁しげった夏山に向かい、流れの蛍ほたるだけを昔に似たものと慰めに見ている浮舟うきふねの姫君であったが
五行説で54は、「九紫火星」(九星)の「離」(八卦)の『二つのものが一つのものをはさんで向かい合う。即ち、火、光』(卦象)そして紫だ。
ここで終わらないで、どこで終わるのだろう。
陰陽道のことも意識していたのか。
【ストック置き場】
陰陽五行によると
墨 粒子の大きさによって、小さな粒子の赤色と大きな粒子の青色に分かれる。
玄武の黒は、青色を濃くした色。
ヤマトタケルが白鳥(クグ)と言っているが、元祖「クグ」はヒキガエルである。
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