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19 | 允恭天皇 | 雄朝津間稚子宿禰天皇 | 恵我長野北陵 | 仁徳天皇 | 葛城襲津彦の女・磐之媛命 | ||
20 | 安康天皇 | 穴穂天皇 | 穴穂 | 菅原伏見西陵 | 允恭天皇 | 忍坂大中姫 | |
21 | 雄略天皇 | 大泊瀬幼武天皇 | 大泊瀬幼武、大泊瀬?、幼武? | 大泊瀬幼武尊 大長谷若建命 大長谷王 倭王武 |
丹比高鷲原陵 | 允恭天皇 | 忍坂大中姫 |
22 | 清寧天皇 | 白髪武広国押稚日本根子天皇 | 白髪 | 白髪大倭根子命 | 河内坂門原陵 | 雄略天皇 | 葛城韓媛 |
23 | 顕宗天皇 | 弘計 来目稚子 |
弘計天皇 袁祁王 袁祁之石巣別命 袁奚天皇 |
傍丘磐坏丘南陵 | 市辺押磐皇子 | 荑媛 | |
24 | 仁賢天皇 | 大脚、大為、億計 | 億計天皇 大石尊 意祁命 意富祁王 |
埴生坂本陵 | 市辺押磐皇子 | 荑媛(はえひめ、葛城蟻臣の女) | |
25 | 武烈天皇 | 小泊瀬稚鷦鷯尊(紀) 小長谷若雀命(記) |
傍丘磐坏丘北陵 | 仁賢天皇 | 春日大娘皇女 | ||
26 | 継体天皇 | 男大迹(ヲホド) | 袁本杼命・男大迹王 彦太尊 雄大迹天皇 乎富等大公王 |
三島藍野陵 | 彦主人王 | 振媛 | |
27 | 安閑天皇 | 広国押武金日天皇 | 勾 | 広国押建金日命 | 古市高屋丘陵(高屋築山古墳) | 継体天皇 | 尾張目子媛(尾張連草香女) |
28 | 宣化天皇 | 武小広国押盾天皇 | 檜隈高田 | 建小広国押楯命 武小広国押盾天皇 |
身狭桃花鳥坂上陵 | 継体天皇 | 尾張目子媛(尾張連草香女) |
29 | 欽明天皇 | 天国排開広庭天皇 | シキ? | 志帰嶋天皇 斯帰斯麻天皇 |
檜隈坂合陵? | 継体天皇 | 手白香皇女 |
30 | 敏達天皇 | 渟中倉太珠敷天皇 | 他田、訳語田? | 渟中倉太珠敷尊 他田天皇、訳語田天皇、訳語田渟中倉太珠敷天皇 |
河内磯長中尾陵 | 欽明天皇 | 皇后石姫皇女 |
31 | 用明天皇 | 橘豊日天皇 | 池辺? | 大兄皇子 橘豊日命 |
河内磯長陵(河内磯長原陵) | 欽明天皇 | 蘇我堅塩媛 |
32 | 崇峻天皇 | 長谷部若雀天皇 | 泊瀬部 | 欽明天皇 | 蘇我小姉君 |
奈良県の公式見解か?
葛城氏が天皇家と敵対しうる勢力であったことをも示します。雄略天皇の時代は日本という国家形成の時代でもあり、そうした潮流の中で、天皇家の敵対勢力がことごとく敗れ去っていった時代です。葛城氏を支配下に組み入れることが大和統一の最後の鍵を握っていたのです。
こうして、雄略(第5代)ー天智(第38代)のつながりが見えたのであった。
よくわからないが、これが専門家から「允恭系」と呼ばれる繋がりだろうか。
ここで重要なのは、天智と天武は兄弟であって、兄弟でも系統が分かれることがあることだ。まさに「葛城」との名を持った天智と「大海」「中原」との名を持った天武は何かが違ったのである。
あと、「広」という名も出て来る。これは「ひろ」から「はり」に変化して「御はり」「尾はり」になったのだろうか?
そう考えると清寧(第22代)は豪華で、「髭」「広」「根子」「日本(倭)」で外戚に「葛城」が居て、ストレートフラッシュが成立している。「髭」が「磐」だったらロイヤルストレートフラッシュだったろうか。「木」「毛」「髪」「髭」は若干「根子」と被るのかもしれない。
あんまり業績を効かないが、どうしたのだろう?
神武の「毛」と関係あったのかと思ったら、豪族との関係からは説明されていない。
と思ったら「磐」もあった。
磐余(いわれ)は桜井市阿部から橿原市東池尻町にかけての地域の古地名で、屋上庭園から真南の方向にある天香具山の北東麓にあたり、大和朝廷時代には政治的要地でした。磐余の池は現存しませんが、橿原市東池尻町の御厨子神社付近にあったとする説が有力です。
ややこしい。
天武天皇が没したわずか1ヶ月後に、大津皇子は謀反を企てたとして捕らえられ、磐余の訳語田(おさだ)にあった自宅で自害させられましたが、この事件の首謀者は鵜野讃良皇女だったと考えられています。
第6回磐余(いわれ)/奈良県公式ホームページ
『訳語田(おさだ)』と言えば敏達(第30代)も関係しているかも(?)しれない。
「鵜」と言えば倭王武(雄略)の刀だけれど、関係があるのだろうか。
「雁」でないのは、嘴の鈎でわかる。
「勾」と言えば安閑(第27代)だ。
持統(第41代)と言えば、「倭」「根子」「広」ただし「天」、すなわち「高天原」で、天智の娘で外戚が蘇我氏、天武と陵墓が同じだ。
こうなると、一体何が関係しているのか、よくわからない。
「雁」が誰なのか、いまだにわからない。
www.museum.yokosuka.kanagawa.jp
はじ色もある
媒染に灰汁あくを用いることでこの色になる。平安時代から用いられてきた色名。
櫨色とは - コトバンク
関係があるかもしれない語彙群
本来、いかずちは鬼や蛇、恐ろしい神などを表す言葉であった。
奈良時代では、「神(かみ)」の「み」の発音と、「上(かみ)」の「み」の発音は違っていた。
古い文献の中には、神を「虎」や「蛇」と称しているものもあり、上の方にいる存在とは限らなかった。
「型や型のかぎをかみあわせたさま+口(あな)」
やっぱり穴だったんじゃないか。そうすると、「耳」(みみ)「口」(くいみち)「鼻」(はな)で〈m〉と関係ないのは「鼻」だけだ。
〈n〉が付く。なぜだろう。
「ま」は「ある」評価で、「な」が「ない」評価なら、原始は口呼吸をしていて、鼻の穴が不思議だったのだろうか。
要は、洟(鼻水)の出入り口、関くらいに思われていたではなかったか。
だから出て来る水(粘液)の方は「すす(はな)」ではなかったか。
それが『枕草子』の時代になると、「洟」として忌み嫌われるようになっただけで、本来は、ただの空(あな)ではなかったか(つまり、鼻が「先(端)」ではなく、洟が「先(端)」を担っていた)。