其明年,單于遣使遺漢書云:「南有大漢,北有強胡。胡者,天之驕子也,不為小禮以自煩。今欲與漢闓大關,取漢女為妻,歲給遺我糱酒萬石,稷米五千斛,雜繒萬匹,它如故約,則邊不相盜矣。」漢遣使者報送其使,單于使左右難漢使者,曰:「漢,禮義國也。貳師道前太子發兵反,何也?」使者曰:「然。乃丞相私與太子爭鬥,太子發兵欲誅丞相,丞相誣之,故誅丞相。此子弄父兵,罪當笞,小過耳。孰與冒頓單于身殺其父代立,常妻後母,禽獸行也!」
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本当は、今日は👇を読もうと思って図書館に寄ったら、休館日だった。
つまり、「聖徳太子の三段論法」の(すなわち、「天皇外交」の)原型が、「単于外交」にあったんじゃないかと思ったのだが(「天皇」に激怒した〈中華帝国〉は「単于」には激怒していない)。
そうすると、一方で、白村江の戦いで「百済の再興」が言われるのだけれど、「百済」とは何であったのかも気になる。
南方からの「仏教の通り道」だったのか(『皇帝菩薩』と言われた武帝)、北方からの別の途だったのか。
百済の前身の一部は濊らしくって、濊は扶余語族になるらしい。
「日本・高句麗語族」(日琉語族)仮説
扶余語族 - Wikipedia
ネイティブがfavored sonと訳すものを日本人はa willful childと訳す。
まったく意味が異なってしまう。