形式的誤謬

それはね。
構造理解だけで《了解》するか。
意味まで考えるかって話であって。

how | ロングマン現代英英辞典でのhowの意味 | LDOCE
次に、「方法」って何だろうって、手持ちの『明解辞典』で調べると。
意味が循環しているんだね。簡単に言うと、「方法は方法だ」という説明。
この場合に「どう理解するか」がそこで問われていると思うんだなぁ。 

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論
 

そうすると、👇の話にもなるけれど

「手段」と「方法」 - 違いがわかる事典

グーグルで検索すると

ほうほう 【方法】
てだて。特に、ある目的を達するための、計画的な操作。

「方法」とは(その対象とされる内容=情報とは"別に")何かしら明示的に認識される、具象的或いは抽象的にでも、外観を持っていることだろう。
このとき、「方法」にどこまで含意されているか、を考えると、分析的な理解と統合的な理解を分ける意味がある。
法学というのは、そういうことを考える学問でもあるんだね。
法実証主義 - Wikipedia 英米と大陸でなぜ、異なる実証主義があるのか
言語学は、「国語」のことは言及するのだけれど、「法学」への言及がないのは、残念なんだね。

そうすると、問題は、
『ゆかりはどうインスタを消したらよいかわからない』

『ゆかりはどうインスタを消したらよいかわからない』
このときに、「二重主語」と言い出すとおかしなことになるのであって、
つまり、
(検索中)
こちらの方の英語の先生は、
『あなたが出席することが必要です。』
を形式主語から説明するのだけれど(it's necessary for~)
それはlongman英英辞典を見ればわかるように、言い換えられるのです。
your attendance is required 或いは、i require でもいいんです。

 ゆかりは/どうインスタを消したらよいかが/わからない

であって、「わからない」の指示対象は明示されているのです
意外と難しい格助詞「が」の使い方⇒格助詞「が」には主格しか認められないのかー「対格(直接目的格)」的に対応する格助詞「が」
「国語」は実は「英語」の成立と密接な関係があるけれど、「対格」を排除してしまった。
或いは、そこに形式的な「名」を付ける必要がないのであって。
ただ、元の文だと、感慨を吐露しているかのような印象を与えるので違和感を抱くというだけの話か。或いは、逐語的な対訳を考えると違和感を抱くだけなのですが、それが、necessaryとrequireの違いなんです。そんなことを日常において気にすると逆に違和感を抱かれるのは、この間、ツイッターで話題になっていたとおり。
これが気になってしまうというのは、入試の問題もあって、無暗に公平であろうとして、解釈の幅を許さないということもある。普通に考えれば「まぁ、そういうことだよね」の「まぁ」を許さない。

主語と主題が語られるようになってきているのだけれど、
主語(文法的主語)/主体(行為的主語)/主題(主題的主語、topic上の主語)にヴィゴツキーはすでに分けているし、そこに主眼も加えてよいかもしれない(夏目の有名な〈F+f〉は何だったか)。ただし、主眼と言うとき、中心を中心たらしめている機序の方がむしろ大切かもしれない。
ヴィゴツキーの内言と外国語学習ー日本語話者の英作文学習を例としてー
 夏目漱石研究 ―初期「文学」概念の可能性― - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科

つまり、何が言いたいかと言うと、その指摘は(近代的な)ドクサ或いはドグマに過ぎないじゃないの?ということです。

助詞の中で{が}は一番最後に選ばれる「余り物」に過ぎないんじゃないのか?という素朴な疑問を抱いているんだよね。中心じゃなくて。
もっと言えば、周縁として、あくまで他の〈辞〉と比較される(⦅独立した機能を持った語群において、⦆〈辞〉は〈辞〉同士で比較される)中で(意味的にではなく合理的、経済的に)決まるに過ぎないんじゃないか(その中でも一番弱い意味しかない)、と思っているんだけれど、まぁ、それは学問的ではない。

 

中国人の論理学 (ちくま学芸文庫)

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 👆時枝誠記 - Wikipedia 「時枝文法」今まったく評価されないのだろうか?