〇自己の性欲を自己が支配していると思い込みすぎかもしれない
〇ならば、自己の性欲を自己が認識していると思い込みすぎかもしれない
〇また、自己の性欲を他人は支配できないと思い込みすぎかもしれない
〇ならば、自己の性欲を他人は認識していないと思い込みすぎかもしれない
〇「女性蔑視」は「わいせつ」の議論と対置させるべきかもしれない
〇自己の人権と他者の人権の調和について「私的領域」と「公敵領域」の区別であるとしたら何か
〇「調和」の手続きに「主張」があるかもしれない
ということでは、おおむねないだろうかね。
「昭和」というすごく暴力的な時代、暴力がアタリマエの時代に生まれて、👆のようなことも見聞きして、ある疼きも抱えながら生きて居る身からすると。
安易に自由を標榜するのもどうかと思うが、身もだえするほど苦しいなら、そこまで追い込まなくてもよいではないかとも思う。
誰かが言っているのは、もちろん「不倫」における侵害行為の当事者に対してだけれど、それが「悪意の第三者」を装っているときに、どのように語り得るかだろうと思う。
法律婚による「夫婦」は(重婚禁止に係る)公法関係であると同時に私法関係で、また、会社とも違う組合とも違う、合同行為的でありつつ契約行為的である、基礎的な共同体です。
このような関係の時に、(単に法律関係を理解するだけではなく)「語る言葉」を持つことが社会上重要になると思います。
しかし、それは文学ではなく、発話行為を伴いますが純然たる会話とも異なります。
文法への理解だけでは理解できない「何か」があると思います。
先生、こういった「生の語り」は文学に表れません。
「対話」こそが平等に文法を選択する主体性を保障するからです。
上記の「生の語り」に典型的にみられるように、二重の錯誤が組み込まれた欺瞞性を、そうであると理解せしめるのは、文学ではない、と思います。
なぜなら、文学はすでにそのような錯誤に置かれるからです。
PISSAが「ネットリテラシー」としてとり上げた画期は、ここらへんにあるように思います。「生の語り」にある暴力性と対峙する、「対話的な語り」です。
先生のおっしゃっていることは、「村上春樹擁護論」に似て、村上春樹を擁護論を受容するには社会主義リアリティーを所与として受け入れる場合にのみ可能ですが(これとは別に、比喩など個々の表現を称賛することはできます。)、そもそもそれに疑問を持ったときに、「文脈」として、「正しい読み」が強要されてしまうことに抗えなくなるんです。文法が選択されてすでにある、ことの暴力性です。
それは一種の「暴力」なんです。
それに抗うにはロジックが要るんです。
それが人権です。
「ヘミングウェイの文法」には出てこないんです。
それは、あらかじめ選択されたうえでの「例示」に過ぎないからです。
読み直すヘミングウェイ : 故郷オークパークから/へのまなざし - 前田 一平 - 著者一覧 - 広島大学 学術情報リポジトリ
リリアン・R・リーバーはなぜ、数学と同時に民主主義が語れたか。
文法と同時に民主主義を語ることはできない。