そういうものだ

本当はこの後、クワインクリプキの方法論的ホーリズムモダニズム以降の後期近代主義)からの、上杉の幾何的ホーリズム(プレ近代乃至前期近代主義)への批判と進められればいいのだけれど。

「近代」にはどうしても革新性を胚胎していて、「男女の機会均等」に関してむしろ日本より酷かった欧米が、どのように克服していったかを観察しないわけにもゆかなくなる。例えば、アメリカだと、3度の「建国」があって、南北戦争を戦った第二の建国の父リンカーンの後の時代だから、憲法裁判の被告である第三の建国の父FDRまでの道のりを具に見た方がいいだろう。日本だと、美濃部の革命から、その弟子宮澤俊義による戦後の「8月革命」までを見ることになる(このとき、その間にあって美濃部も関係したヘボン講座や、その後にあって有名事件で裁判官をつとめた田中耕太郎はどうだろう。アメリカがちょこちょこスパイスを効かせて来る)。フランスだと、第三共和政で、第四共和政までを見ることになるだろうか。

 

上杉に対する世上の評価は、芥川龍之介がなぜ志賀直哉を真似できなかったかとも通じるし、「現代国語」の志賀の「読解」のどこか奇妙な感じとも通じる。「国語」の、文法による読解にはおのずと限界があるのだ。

これでは多少わかりにくいかもしれないが、敢えて言うなら、

  • 文学者は、「国語」を研究する
  • 公法学者は、「議論」を研究する

両者に共通して在るのが、「論理」だ。「国語」を見るにも、「議論」を見るにも、それらを包含して超えるものが必要である。或いは、(狭義の—国語の—「文法」ではなく)広義の「文法」かもしれない。
つまり、彼ら明治人は、「「国語」を作る」「「議論」を作る」立ち位置を保っていたということである。現代の私たちは、そのフォロワーに過ぎないから、その立ち位置を往々にして見失うだけであった。

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まぁ、それ以前に、『藪の中』で犯人捜しをガチでしていたら、話にならんわね。
それはあくまでも余興(ネタ)であって。
楽しむために斜め読みしているのであって。
『藪の中』は、龍谷大学の先生が提示する、「憑依系」の物語であって、いくら同時代とは言え、シャーロックホームズのようなミステリじゃない(シャーロックホームズの方が一足早く登場した)。

同じように日本語を操って、同じように読んでいるつもりでも、党派性の影響を無自覚に受けているというね。
そうすると、「モダニズム」がなぜ必要になったのかについての理解が深まる。
「判断」に頼ることの脆弱性だよね。
だから、カントがテキストの中に「主体」を「主語」として閉じ込めるようになったにも関わらず「判断」として「主語」(記号)を通じて「主体」が顔をのぞかせるから、次に、テキストから「判断」を除くことへ向かうわけだ。
それがフレーゲの論理主義である。それは、政治的にはジャコビニズム並みの壮烈な勢いを持っていたんだ。絶対に許さない。「心理主義」との闘争の様相を呈していたんだね。

それは、フレーゲからラッセル、そして、ヴィトゲンシュタインへと引き継がれて、哲学的に、完成した(数学的には、ペアノとか、デーデキントとか、そのほかの人たち)。だから、述語論理へ向かっていたラッセルたちからヴィトゲンシュタインが何を引き継ぎ、一方で、アリストテレスの論理学を完成したクリスティーン・ラッド=フランクリンから何を引き継いだかが同じように重要である。
また、実は、ラッセルとヴィトゲンシュタインには、ニュートンライプニッツくらいの違いがある。それは、実は、エウドクソス(をまとめたエウクレイデス、英語読みで、ユークリッド)とデモクリトスの違いだ。そういった意味でも、ヴィトゲンシュタインは、哲学的に、、、、、(また、ラッセルを「発展させた」という以上に)完成したと言える(。想像だが、これがラッセルが、公私にわたってヴィトゲンシュタインの「親代わり」を勤めた一方で、尊敬の念を隠さなかったり反対に無理解を隠さなかったりした理由である。根本に相容れないものを含んでいるのだ。数学では、集合論を通じて、ユークリッドとその派生としての非ユークリッドが主流らしい。知らない)。

「哲学的」が重要で、かつてカントがデカルトを「デカルト」に追い遣ったように、ヴィトゲンシュタインはカントを「カント」へ追い遣った。カントなくしてデカルトが語り辛いように、ヴィトゲンシュタインなくして最早カントは語り難いはずである(本来)。

これは「戦後」の日本を考えるうえで「鍵」と成る事実である。
世界的に見て、「戦後」は、決して一様ではなかったのである。
それは、「新自由主義」とかいう前に、カウサ理論(エーテル的;真空を否定)と約定論(フロギストン的;真空を許容)を支えた世界観である。
それは端的にはオカルトの受容の差である。マルクス主義は所詮、オカルトのひとつである。

 

私たちの世界観はいつだって、自然の事実の前に、揺さぶられてきた。

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