廃校していた9

 

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  • カントによる「デカルト批判」の世界から、ヴィトゲンシュタインによる「カント批判」の世界へ
  • 「幾何的世界観」から(ジョン・ウォリス、ニュートンフェルマーライプニッツ以来の方法的な解析学の発展に伴う)「解析的世界観」へ
  • 「カウサ理論」から「約因論」へ
  • 「幾何的ホーリズム」から「方法論的ホーリズム」へ
  • 「モデル」としてのアトミズム;分子構造モデルと社会契約説諸派
  • その背景にある、確率論の進展;目的を欠く「ただ「在る」」存在の認識(の難しさ)
  • 旗本から官僚へ「混合政体」を進める「天皇機関説」(分析的理解)と、将軍/大名の権威の競合を露呈した「赤穂問題」の根底にある権力効果の「遠近」問題が、地方の統合問題としてあらためて想起された、就中、各主体間の相互主義(平等に規定されるがゆえに公平)を統合問題として想定する(したがって、ホーリズム、前期近代主義に根差すがゆえに、「幾何的ホーリズム」を指向する)、「徳川の「天下」」から「天皇の「主権」」へと進める「天皇主権説」(統合的理解)
  • 伝統的語彙は歴史法学(ゲルマニステン)の要請である
  • したがって、美濃部と上杉の論争は、吉野と上杉の論争へ展開する
  • 実証的観念を訓練した仏教と、抽象的(参照)操作を訓練した中華思想諸派が習合した土着思想の中で、「自然」と言う、単位と相互参照するフィールド設定の意義;関西人、、、である福沢諭吉に見る「友愛」と「博愛」の分別が、キリスト教諸派の影響を背景に持つのか、関西的な土着思想を背景として持つのか。
  • 山縣有朋へのアーサー・ウェルズリーの影響はあったか(統帥権の独立問題)、上杉慎吉吉野作造の論争へのラッセルの影響はあったか(ラッセルの「理論的共和主義」への上杉の近接と、吉野の「民本主義」と謂う事実上の混合政体論である君主制国民主権説※。英学か、米学か、独逸學か、いつもの習合思想か)
    天皇主権と国民主権の両方の性質を場面ごとに(内部で、メカニズムとして)「説」明する混合政体を「論」じるために、双方から超越する「国家」を対抗乃至代替権威として(仮想的に)呼び出す必要が出てくるのが吉野の実情であったようである。この「内部構造」を美濃部と共有するがゆえに、両者が上杉から議論の標的とされたようだ(機械的な発想が議論の対象のひとつであったらしい)。

すなわち、上杉は、西洋の受容に関してどちらかと言えばデカルトからカント的であり、幾何的ホーリズムを主張して、認識上は素朴実在論を忌避した抽象的実在論を採りつつも、学理上は「モデル論」(社会契約説)を排撃し、政治上は、中央の混合政体を非難したのである。すなわち、美濃部とともに、ポスト近世的な発想から前期近代主義の人であり、維新ゆえの武士(間の均衡、、)社会(人事)が影を潜め、学閥のよる政治への影響力が増し党派的対立が激化した時代に中心(的)となった人である(。上杉への「虐め」は酷かったらしい。「虐め」への不満、義憤が、上杉の死に際して噴き出したらしい。翻って庶民の出である美濃部が、あくまで中央に於いて、クーデタ的「革命」―法学的な正統性の意味と、そうであるがゆえに議会内部の勢力掌握の意味の両方—の先兵を—実質、内務官僚出身一木、大蔵官僚出身渋沢栄一ら「近世哲学者」の走狗となって—務めたのと、政治的立場が異なる。ちなみに、美濃部の師である一木喜徳郎は、上杉の死に際して、実際に大学で講義した立場から、上杉の資質を高く評価している)。

しかし、社会が煮詰まってゆくにつれ(すなわち、急速に、社会統合が進むにつれ)、普通選挙を支持したのであった。
特に、女権問題で、美濃部との「温度差」が顕著で、控えめな形式的、いわば「教科書的」主張に留まった美濃部に対して、私財を投げうっても支援した上杉の熱意は注目に値する。
大正になると「良妻賢母」が問題視されるようになるが、実際問題として、中央政治勢力に決定的な影響のなかった「女権」への無関心と、地方の興隆において無視しえなかった女性の立場の擁護との違いについての感想を持つ(漁港の女性たちによる「米騒動」は富山で起きた。これは「革命」ではなく、従来の一揆的な「強訴」であって、直面して対立する「当事者」としての利害関係者間を調停する役割を、具体的社会関係から超越した第三者に期待する、法学上の「公訴」の措定の問題である。
c.f.喧嘩両成敗法—実際に「喧嘩両成敗法」が公布された例は地方軍閥にも稀であったが、この理念は広く普及した。こういった「強訴」は「喧嘩両成敗の失敗」を実際的に指摘するものであって、いずれも「公訴」の観念の定着に関することである)。
金沢に於いて、幼稚園が凌ぎを削って勢力を競いあったのは、(金沢に於ける)幼児の死亡率が、全国的に見て、顕著に高かったことが背景にあると言われる。
そこに、県庁の移転による、金沢の(一時的な)衰退という事情もあったらしい。
前田家に施された恩義を持つ上杉は、自身にも、「施す人」であること課したようである。


学術的な背景に迫った好著でありつつ、こういった方法で論じる「端緒」「嚆矢」にとどまった感が否めないが、それは専門領域に関しても、最新の研究動向としても、仕方がない。