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『婦人公論』は『中央公論』の婦人問題などの特集が耳目を集めたことによって創刊されたらしいが、
前身は、西本願寺系の普通教校(龍谷大学の前身)で高楠順次郎らの学生有志が禁酒と仏教徒の綱紀粛正を目的として1886年(引用者注:明治19年)に組織した「反省会」の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』[1]。禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。
赤字強調は引用者(以下、同じ)。
その『中央公論』はもともと「禁酒」が目的だったらしい。
1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介や菊池寛をいち早く起用した。
大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。
マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。
さて、『改造』である。
1921年(大正10年) - イギリスの著名な論理学者バートランド・ラッセルを日本に招聘。
1922年(大正11年) - アルベルト・アインシュタインを日本に招聘する。
山元実彦が創刊したとのことである。
1919年(大正8年)には改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌となる。
さて、「大正期最大のベストセラー」はどれほどのものか。
1920年(大正9年)に自伝的小説『死線を越えて』を出版、わずか1年で100万部超という一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。
すごいものである。文芸の黄金期のようだ。
そのラッセルが、日本の「愛国」と「忠君」を批判して述べている。
科学は合理主義への傾向を有するものと考えられている。しかも日本における科学的知識の普及は,著しい。ミカド崇拝(注:天皇崇拝)の強制と,時間的に synchronize 並行している。ここに日本文明における最大の時代錯誤的特色がある。社会心理学にとって,また政治理論にとって,日本は絶大の興味ある国である・・・
これは
終戦間近の1918年9月、彼は4,5ケ月で出獄した。
バートランド・ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社)訳者解説 - Bertrand Russell のページ
貴族として愛国者であることを自覚しながら、大衆に驚き運動した結果、投獄された経験後のことである。
1940年、ニューヨークの市立大学が彼を招聘したとき、英国国教会の監督マンニングは、この任命に異議を唱え、ブルックリン在住の歯科医の妻を正式の原告として訴訟が起こされた。原告の弁護士によれぱ、ラッセルの著述は、「みだらで、猥褻で、淫蕩で、荒淫で、性病的で、色気違い的で、催淫的で、無神論的で、不敬で、偏狭で、虚妄であって、道徳性なきもの」であり、
バートランド・ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社)訳者解説 - Bertrand Russell のページ
『金沢第一中学一覧』の「(石川県尋常中学校寄宿舎)寄宿舎細則」(1897年・明治30年)と比べると興味深い
「忠孝」の次に「友愛」の字が躍る。
「博愛」に関する福沢諭吉の態度が面白い。教育勅語は福沢的でないのだ(というより、福沢が反教育勅語的であったらしい)。金沢第一中学校は教育勅語を推戴する。
これもまた習合的と言ってよいだろうか。
「愛国」を巡って、貴族的な、庶民的な、キリスト教的な、仏教的な考えが、拮抗しながらやがて収斂していっただろうか。その中に社会主義もあった。
ラッセルはマルクスを間違いと断じたが、「共和主義」については、
孫バートランドの意見によれば、祖父は、「君主が自分は人民の使用人だということを、そして、その任に耐えぬことがわかれば罷免されるのだということを了承しているうちは、君主制を我慢しよう」という「理論的共和主義」者であった。
バートランド・ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社)訳者解説 - Bertrand Russell のページ
当然、この影響を受けただろう。
実は、上杉慎吉もほぼ同じことを言っていて、上杉がどこからその影響を受けたか興味深い(確認して、引用出来たら、したい)。
若い「反穂積」の頃ではなく、ドイツ遊学を経て穂積の後継を自認した、ずっと後に、実子にひそかに述べていたということである。
図書館で、『吉野作造と上杉慎吉』を確認したが、すぐに見当たらなかったので、保留とする。『甦る上杉慎吉』(原田武夫,講談社,2014)の方だったかもしれない。だとすると、「ネタ本」なので、或るいはどこかでラッセルの言葉と混同したものを孫引きしたのかもしれない。それはわからない。或いは、私の勘違いかもしれない。
ラッセルは、トーマス・マンの〈王〉を推戴する「ナショナルな民主主義」どう違うか。
トーマス・マンの中で、ルソーの影響がゲーテと結びついたということである。
トーマス・マン 1922年 一一<転向>をめぐって一一 士川内 田 手口 韮山
1922年は大正11年である。