バートランドの意見によれば、祖父は、「君主が自分は人民の使用人だということを、そして、その任に耐えぬことがわかれば罷免されるのだということを了承しているうちは、君主制を我慢しよう」という「理論的共和主義」者であった。

バートランド・ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社)訳者解説 - Bertrand Russell のページ

ちなみに、上杉慎吉も同じことを子に語り、「そのような怖いもの」と説いていた(子自身がそのような感想を持った。忘れた)。

いい加減、北海道大学のエッセイに典型的にみられる、気違いじみた宗教思想家としての上杉像、明治のエッセイに見られる、奇人としての上杉像は、払しょくされるべきだ。誰が夏目漱石のひとつのエピソードを取り出して総合的な人格評価までするのか。
ましてや業績の評価までするのか。エピソードはエピソードで何の理解の助けにもならない。

一部のおかしな連中にとって残念なことに、ポスト近世から近代制度が十分理解できるようになるまでの民主主義の始期にあって、穂積と弟子の上杉らは、誰よりも(擬態的に言えば、一木、美濃部らよりも)欧州思想を理解して、啓蒙的、先導的な役割を果たしたのは、否定のしようがない。

 

大事なのは、近代思想が日本の制度として血肉化してゆく過程で、それまでの近世の体系がどのように溶け込んでいったかであり、報徳思想から新仏教への転換を、民主主義の発展から見てゆくべきである。世間、天下から、人間(心理学的な人間像)、世界(哲学的な世界、軍事的な世界、社会経済的な世界)へ関心が移る中で、大正生命主義から、昭和の、太陽主義と日本主義の双子の誕生である。