ラッセルが「赤い」は主語にならないがゆえに、タイプを考えたとき、ヴィトゲンシュタインはタイプを受け入れなかった。

すなわち、「赤い」は主語になると考えたはずだが、この時、真理値表を必要としたのではないだろうか。「ある」がFである。「F」は「在る」と言えるか。ここに「事実」と「事態」を分ける意義があったとすれば、それもまた規範であって、表現の違いでない理由があるだろうか。

ラッセルは「枚挙的」であることを擁護した。ヴィトゲンシュタインは「ない」事実は「ない」と言ったが、Fは在ると言った。

ここらへんの議論は、ドイツ人らしく、ライプニッツの「無限小」の議論に近いのではないかと思った。

エウドクソス、アルキメデスニュートンボルツァーノ、コーシー、、、そしてラッセルである。

デモクリトスライプニッツアブラハム・ロビンソン、ルクセンブルグ、、、そしてヴィトゲンシュタインである。

超準解析 - Wikipedia

ここまでの解説はできないので、クリスティーン・ラッド=フランクリンとヴィトゲンシュタインが同じ意義のことを言っていることの説明を以て替えたい。


ヴィトゲンシュタインのことを嫌っていないつもりだが、どうも肯定的に評価しづらいと思っているようだ。この分野では、やはり、フレーゲラッセル、であり、或いはホワイトヘッドも居る。ホワイトヘッドはあまり知られていないが、散逸構造を明らかにしたプリコジンが「自分はホワイトヘッドである」と言ったほどである。

この中では、フレーゲの評価が低すぎたのだ。

ヴィトゲンシュタインは、「ニーチェと同じ、流行りものを少し早く扱った哲学者である」と言ってしまいたいが、真理値表が在る。この業績を、ラッセルらの業績と同じように、認めないわけにはゆかない。

しかし、真に独創的だったか、それなりに独創的だったか。
言い換えると、真の独創性は、アメリカ人に譲るべきか。

ヴィトゲンシュタインからは、カントを通じて、古き良きプラトン主義者の雰囲気を感じる。