父親との確執について。ここでも「歴史問題」が垣間見られる。
夏目漱石は当時珍しくなかった天然痘の罹患者で、痕を終生気にしていたのではなかったか。
夏目漱石が幼少時に受けた、笊に入れられてたなざらしにされたなどの「虐待」は、そういった点から考えられないか、疑問に感じた。高峰秀子さんも「出戻り」だったので、違うかもしれないが、状況の分析をせずに、拾い上げた事実を物語で繋ぐ悪弊がここにもあったように感じた。
それ以外はなかなか面白かった。西田幾多郎が選科生=当時から、聴講生は聴講生で居たはずだから、それを『現代の聴講生みたいなもの』というのは正しい理解だろうか疑問に思ったが、それは脇に置いて=で苦労し、それで腐っていたというのは、興味深かった。
心理学とのつながりは、下に書いたように本質的であるので、本書できちんと触れられていてよかった。「日本思想」から入ると、的を外して、理解が難しいだろうと思う。
(誰だったか失念したが『大正生命主義と現代』に記載在り。)ビネーの研究が、発表からほとんど時を待たずして、研究に生かされている、当時の学術のネットワークを侮るべきではないと思う。最先端の学術研究に関しては「日本独自」の方がかなり違和感を覚えるのだ。
「ありえない」と言ってよいのではないだろうか。

西田幾多郎は、フレーゲフッサールと同じように、哲学ではなく数学として論理を修めたらよかったと思う。
ライプニッツに触れていないのは不思議だ。
やはり、選科生であることが、学問上の考察を正統に行うことの妨げとなったか、と思わないではないが、授業には(当時の)本科生並みに出席して(選科生なら2単位で済むところ)10単位取得したということであり、大学、大学院で教授の指導をどこまで受けられたかだろうか。

西田幾多郎(1870 - 1945)は才能のある人だったから、5歳下の高木貞治(1875 - 1960)がヒルベルト(1862 - 1943)に師事したように、若いうちにフッサール(1859 - 1938)の元へ行けなかっただろうか。ヴィトゲンシュタイン(1889 - 1951)だって、ラッセル(1872年 - 1970年)に師事したのだ。

余談だが、盟友鈴木大拙になると、

むしろ、ジャニーさん(ジャニー喜多川)を思い出すのは、父の喜多川諦道がアメリカで真言宗の道場を拠点に活動していたからだ。ジャニーズ事務所には、戦後の「アメリカ文化の伝導」を目指した側面があると言われるが、真言宗もやはり大正生命主義の影響を受けていたのであるし、また、参考にしたと言われる宝塚歌劇団もそうであるので、やはりそういったことではなかったかと思う。

この高野山米國別院に、喜多川諦道が現れたのは1924年(大正13)。高野山和歌山県)の僧侶だった25歳の諦道は、後援者から支援を得てひとり欧米外遊の旅に出発、その途上に別院を訪ねた。

《追悼メリー喜多川》旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」 | 文春オンライン

喜多川諦道は1898年(明治31年)から1899年(明治32年)の間に生まれたことになる。


1898年生まれ・明治31年生まれの有名人(芸能人・歌手・スポーツ選手など)

安岡正篤(日本主義者)、井伏鱒二横光利一清宮四郎(法学者)、麻生豊(漫画家)、須藤しげる(須藤源重。イラストレーター)、北村喜八(演出家、劇作家)、萩原恭平言語学者。『Jack and Betty』の共著者)、蕗谷虹児(挿絵画家。「抒情画」という言葉の考案者)、花山信勝(仏教学者、浄土真宗僧侶。巣鴨拘置所教誨師

1899年生まれ・明治32年生まれの有名人(芸能人・歌手・スポーツ選手など)

赤尾敏(政治家。天皇社会主義者)、尾高朝雄(法学者。ケルゼンの弟子、フッサールの弟子、日本で最初に法哲学を専攻した)、兼岩伝一(「土地区画整理は都市計画の母」の言葉と四日市の巨大コンビナート)、田河水泡(『のらくろ』)、小林中帝人事件、戦後「影の財界総理」)、宮澤俊義(法学者)、石川淳(小説家。無頼派)、川端康成江上トミ料理研究家)、末延三次(法学者。「プライバシーの権利」を紹介)
(人物名のリンクはすべてWikipedia

鈴木大拙は、新渡戸稲造ジャニー喜多川の間に入りそうである。
👇ジャニーズと石原慎太郎
ジャニーさんの… | ゴン太の一方通行通信

kokoro.kyoto-u.ac.jp

善の研究』は『純粋経験と実在』であって、これは西田幾多郎なりの『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』だろう。
すなわち、フッサールとそれを批判したフレーゲからを見ないとわからず、西田幾多郎の失敗は、アリストテレスデカルト、カントに(元良勇次郎から教わった)ウィリアム・ジェームズだけでそれをやろうとしたことが、明らかに研究不足だっただろうことが考えられる。
つまり、命題論理から述語論理へ移行するにあたって、心理主義を導入したために、フッサールやそれを批判したフレーゲ自身と同じ失敗をして、だから、フッサール現象学へ向かったように、美学乃至倫理へ向かった。それは西田幾多郎の挫折だ。

西欧ではラッセルも出たし、ヴィトゲンシュタインも出たし、ブールも出た。
日本では、仏教に、ほとんど吸い込まれた。

おかげで大正期の研究はようやく緒に就いたという雰囲気である。
述語論理には触れても、同時期のフレーゲには触れないことが、いまだに、、、、ごく自然に行われている。
ありていに言ってクレイジーである。
夏目漱石の『F+f』にしても西田幾多郎の『純粋経験』にしても、世界の学術の動向からそう隔たった考えではなかったと思う。
「日本独自」になったのは、大正オカルティズム(大正生命主義)があったからで、これ自体世界的な潮流の一環だったし、もともとは法学上に歴史法学があった。

文学だけで無理やり理解しようとしすぎる政治的影響が根深いのであった。
歴史学と文学の一部で、政治的に正しいと信じる分には科学的に不正確で構わないとする態度を隠そうとしていないように見える。


こうやって見ると、ネットワークの強みを活かすと、社会的な影響が大きくなるという、当たり前と言えば当たり前だが、なかなか見落としがちな点に気づく。
仏教は「イベント」で見ると、神道系に押されたかに見えるが、海外、国内と着実に勢力を伸ばしていた(確かに、廃仏毀釈の当初は、伝統的仏教が勢力を削がれてしまったようであるが、反対に、禅系と浄土真宗が伸びたらしい。これが、ネットワークの強みで、変な話になるが、大陸打通作戦赤軍を助けた話に似ている)。
この場合戦争ではないが、やはりもつべきは、資産か。点を繋いだネットワークを、マヌーバー可変的maneuverableに動く。中国共産党に先駆けた戦略性だったと褒めてよいだろうか(こういった観点から、戦国時代の本願寺の動きと北陸の戦略性の考察が進んで欲しいとも思う)。