「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㉓

 

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そうすると意外な発見もあるもので、文芸国語が、この頃までは、見下されていたらしいこともわかってくる。

また大正期文芸教育論の論客の一人であった片上仲(一大弦)は、 「往々にして教育の方面からは、文芸は危険有害なものとして、更に甚しきは恐るべき誘惑として排斥せられてゐる傾きがある」のを嘆き、「しかしながら、真の文芸は、教育の方一向から見て、勿論危険有害なものではあり得ないLとしながら次のように言う 。

文芸は人間生活に対する寛大な、余すところなき、細やかな包容力と、自ら癒す生命の力の尊さに対する信頼の念とを養ふものである(4)
 
(4)片上伸「文芸教育の提唱」大正九年十月(『文芸教育論』文教室目 院大正十一年九月十日

教育論の中の大正生命主義||小林秀雄と芸術教育論||,有田和臣

 

大正時代は、いろいろと衝撃的すぎて、放心状態になってしまう。
こんな時代だった

年んだね。
世界的に「激動」の時代で、『大正デモクラシー』はほんの断片に過ぎない。

上のことは、以前も戯れに見たが、心理学の通俗的な受け取り方と関係していて、フロイトユングを日本初の実験心理学者  が初めて紹介したのが、1912年(明治45年)だったという。

 

さて、科学の時代を迎えるにあたって、先行していた数学はどうなっていたか。
100年前にオイラーが始めた「関数」が十分整備されたのもこの時期なら、100前にベルヌーイが完成した確率的推測が集合論の延長に在る測度論を以て科学的になったのも、この時期だ。

西田幾多郎は実はおどろくほど影響を社会に与えたが、おそらくこれに間に合っていない(彼が数学者になっていたら、「善」と言い出したかどうか)。
西田幾多郎が批判したベルヌーイの『持続』(概念)とこの頃始まった「確率過程」のことである。
つまり、ロシアの偉大な数学者アンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフが主張した相互依存は、過去の経緯を無視しているのだ。
つまり、ベルヌーイが排除した「神の正義」から一般的な「目的」にまで言えるようになった。これからのことは現在の位置のみに依存する。
マルコフが"Распространение закона больших чисел на величины, зависящие друг от друга※"を発表したのは、アインシュタインが花粉(微粒子)の、非連続的な動きを統計力学的に解くなどした奇跡の年の翌年、1906年のことであった。

アンドレイ・マルコフ - Wikipedia

※ "Extension of the law of large numbers to quantities that depend on each other(互いに依存する量への代数の法則の拡張)"

哲学は、数学と科学にその玉座を譲り渡して、ただの「地方文化」となった。
それでも、紛れもなく「王」として、社会を広範に支配していたのだ。

それは「右」とか「左」とか生易しいものではなくて、科学が勃興した時代にだからゆえに反科学として社会統治に関わって、広範な影響を及ぼしたのだ。