「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㉔

 

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教 育 社会学 研 究第73集 (2003) 金沢 一 中卒業生か らみた旧加賀藩士族の 社会移動 井上 好人

教 育 社会 学研 究 第 78集 (2006) 近代日本の 「流動エ リー ト」 と郷友会ネッ トワー ク 力口越 能郷友会 の 事例 井上 好人

郷 友会 ネッ トワー クか らみ た学歴 エ リ ー トの アイデン テ ィテ ィ ー 加越能郷 友会の 隆盛と混乱一 井上 好人 (金沢 星 稜大 学)

 

久徴館(旧加賀藩主前田家が石川出身者支援のために東京の本郷区駒込西片町に建てた寄宿舎[6])で居を共にした鈴木大拙に対し、「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援し、松ヶ岡文庫の設立にも尽力した[2]。同文庫の入り口には、「自安」(安宅のこと)と題した頌徳碑があり、「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。

安宅弥吉 - Wikipedia

年表と久徴館での思い出話がよかった。

久徴館時代に館長を長く務めた早川千吉郎(東京帝大卒、大蔵官僚を経て三井銀行常務や南満州鉄道社長などを歴任した。

【日本語メモ】明治の若者たちの道標 加越能育英社と「同感の士」(2/2ページ) - 産経ニュース

早川千吉郎は、あの一木喜徳郎と同じ年に卒業し、政治学科の卒業席次3番だったらしい(一木が一番。ちなみに、理科大学物理学科ではあの長岡半太郎が1番ーただし、卒業できたのも一人だった。あの平沼騏一郎と朝永正三が特待生に選ばれているが、この朝永正三といいうひとは、あの朝永振一郎の伯父さんらしい)。

官報. 1887年07月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

何が言いたいかというと、鈴木大拙は選科生だったものだから、この早川千吉郎になじられて『一体選科生など撲滅すべき』と言われ、それに私立の東京専門学校に通う安宅がいたく立腹したということであった。
ただ、早川千吉郎は

鈴木大拙の死生観と仏教―日本的霊性の意義― 橋本芳契

鈴木大拙円覚寺へ紹介して、それを鈴木大拙がことのほか喜んだ。
鈴木大拙は面倒みられ上手なのか、安宅弥吉というパトロンを得て、後に豪邸をプレゼントされている。野口英世にも複数人のパトロンが居て(星一もその一人であった。)、なにしろ破綻した人格のひとだったから、身代を傾けてまで入れ込んだ人までいたようだが、この時代の「面倒を見る」には並々ならぬ覚悟なのか、義侠心なのか、があったようだ。

 

安宅弥吉の子がやはり帝大から大蔵省に進んだのだが、なんと、NHK紅白歌合戦でおなじみだった「日本野鳥の会」を創ったのも金沢のヒトで(中西悟堂 - Wikipedia)、そのお友達の盆栽愛好家だったらしい。「盆栽愛好家」でトピックが立つのがすごいのか。

ビル・ゲイツから孫 正義まで、「世界の大豪邸」11選! | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

盆栽の世界に、魯山人のような足跡を遺しているのだろうか。知らない。
この早川清は2,000坪の豪邸に住んでいて、中西悟堂を驚かせている。
どのくらいの広さかピンと来ないが、或いは東京ドーム1個分なのかそれもよくわからず、とにかく、ユニクロのあの柳井正さん宅が2,600坪らしい。

鈴木大拙 - Wikipedia
西田幾多郎 - Wikipedia
2人とも一中出身ではない。安宅弥吉も一中出身ではなく、13歳で、石川県専門学校に入って、それが途中から、第四高等中学校に改組された。16歳で、東京専門学校に入っている。早熟だったか、そういうものだったのか。久徴館で3歳年長の鈴木大拙と知り合えた。

 

藤澤清造が、本当に「貧乏」だったのかについて

  1. 出版社に就職し雑誌記者になること
  2. 地方の知己

から上京して成功できるかを考えていた。
2について直接は大して期待できそうもないが、それでも伝手を頼って、世話になれそうな人を紹介してもらうくらいには、都会に余裕のある人がいたらしいことは観た。

この本がなんとも面白くて、「大正」を語るには、この本を読まずしてという内容をj誇っているが、なにしろ「ど文系」の語彙が頻出して、そういうのが苦手な人には厄介かもしれない。

※もちろん、海外の哲学者の錚々たる顔ぶれもあるのだが、受け入れる下地を作ったということだろうか。
ということで西田幾多郎が、今の  な評価からは意外であったが、どうやら西田幾多郎は当時、思想界を席巻したらしい。ようやく西田幾多郎の、戦時に協力した意味が見えた。東条が云々と言っているが、それは夜郎自大である。西田幾多郎はタイミング悪く、西田幾多郎が数学を袖にした後に、数学が哲学を「地方文化」にしてしまったのだが、でもそすると西田幾多郎の文学への傾倒と平仄が合う。自覚的だったとしたら、東条英機も糞もないだろう。

興味深いのはそれ以上に、この時代、〈新型〉の猟奇事件が頻発したというのだ。なぜ、新手と言ったりせずに〈〉でくくったのか。
これがいかにも近代的な事件だからである。出歯亀事件である。
女湯を覗いてその後暴行に及んだということで、猟奇的なのであるが、それが珍しいことではなくなっていたらしい。頻発だったのか、続発だったのか、よくわからないが、当時の社会状況を照らして、憂うべきことだったのだ。事件そのものについては噴飯もので、社会分析が始まっていたようだ。
すなわち、その分析上、「家族」に対置されて「在る」、近代的な孤独である。
それは、近代的な「変態」とともにあったのだから、どうりで、この時代、そういう方面でにぎやかだ。心理学の最初のターゲットも係る「変態」で、最初の科学的心理学者   は、その分析に全力を捧げたのだ。「実際に役に立つ」ことに大いに奮起したことだろう。

こうして、西田幾多郎の標榜した「文学性」も、近代的「変態」が流れ込んで、世界が文学的になるのではなく、(文学を)「変態の狭い界隈」に押しとどめたにすぎなかったようだ。

なぜ、日本の文学は、こんなおかしなことになっているか、積年の謎だったが、そういう理由だったのだ。
哲学の敗北である。
「変態」は、「家族」と対概念を為して、「(近代的)孤独」を照らしだす、この時代の分析概念だったのだ。
そんなことをわかるわけがない。
変態を見たら、変態だと思うだけである。

西田幾多郎の思想は、残念ながら折り悪くアインシュタインとマルコフの登場で、世界的なインパクトを与えられなかったが、「変態」の方が世界の標準語となってしまった。真の独創性がどこに生まれるか、予想がつかないものだ。

ともあれ、「こころ」が個別に独立して自分のものであるとして、「感情」が自分の思い通りにならないときに感ずる「孤独」を「恋愛」と呼ぶことを、フローベールに続いて田山花袋が始めたから、文学における「生命」の表現として、それなりに"La Vie en Rose"が「自然」ということになったようだ。意訳だが。

バラ色の人生 la vie en rose 和訳とフランス語の読み方 - francais.france.abc

要は、随分と身勝手な話に聞こえるが、「高女」出身のモガたちも、「恋愛」にまい進していたからこそ、時代の胚胎する構造問題だったのだろう。

小森和子さんは、1909年(明治42年)に、貿易商の子として東京の山の手(東京市麹町区山下町)に生まれた。

彼女は、英語が勉強したくて、高等女学校に進学することを決め、努力の甲斐があって入学選抜試験に合格したのは良いが、思いがけずできすぎたため、トップの第三高等女学校へ行くことになった。第一志望はそうでなかったらしく、良妻賢母を育てるメニューしかないこの学校に失望している(その後も英語を諦めず、YMCAに通うことができた)。
ただ、プライベートは青春を謳歌したらしく、ボーフレンたちと映画に食事に楽しんだらしい。
映画好きが高じての英語好きだったのだが、読書の楽しみも覚えたということで、有島武郎の『或る女』(1911年・明治44年)、森田草平の『煤煙』に『魅せられた』として挙げ、また「白蓮事件」に触れ、『恋愛というものにも強くあこがれるようになていた』そうである。
それから、東大、法政の学生、慶応の塾生と、彼女自身は当初知らずに通った、彼らの集まる本屋での出会いから始めて、デートを重ねるようになっていったらしい。

「最初の恋愛小説」と言うにも、近代的個人の「孤独」から見るか、近代的な関係のシンボリックな「消費」から見るかで、貪り方、、、がずいぶんと違って見えるような気がする。
森田草平の『煤煙』は、平塚明子(らいてう)と自身との云わば「心中事件」を取りあげた私小説である。森田草平夏目漱石の身勝手ぶりが際立つ。当時のモダンガールが相手になりそうもない野暮さである。要は、平塚明子(らいてい)が格好良かったのだろう。


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