西田幾多郎は、同時代の直感主義的流れの中でも、ベルグソンに最も親近感を抱いたようである。もっとも「善の研究」を書いたときには、まだベルグソンに親しんでいたわけではなかった。「善の研究」における純粋経験の立場は、ウィリアム・ジェームズに刺激されるところが大きかったのである。
https://acaddb.com/articles/articles/10810777
近代日本宗教史の第三巻では、戦前文化の爛熟期である大正期を対象とした論考と、大正期の興味深いテーマを扱ったコラムを収録する。一応の安定を見た近代日本では生に煩悶する青年という新たな知識人層が誕生した。彼らによって宗教書が受容され、「教養としての宗教」が出現した。読者層の誕生により、出版文化が隆盛し、霊能や身体技法が世間を賑わせた。また、宗教的共同体による社会運動も近代の歪みのなかで発生する。行政としては昭和に向けて神道が国民教化に全国的規模で取り組み始めたほか、近代最初の天皇の死により、明治神宮の創建や、大正天皇の即位式などが行われた。
『大正生命主義と現代』内容(一部)
透谷の「生命」、藤村の「生命」 | 紅野謙介 著 | 96-103 |
一九一一年・〈太陽〉・らいてう誕生 | 岩見照代 著 | 130-141 |
大正生命主義と仏教 | 正木晃 著 | 142-150 |
夏目漱石の生命観 | 石崎等 著 | 151-157 |
室生犀星の「生命」 | 竹内清己 著 | 188-195 |
(編者 鈴木貞美 - Wikipedia)
- 第4章 サレイユ以降からカサンによる体系化まで
- 第5章 二つの双務契約の牽連性概念
この「物と債権の牽連関係」が認められるのは、
①債権が物自体から生じたものである場合
または
②債権が物の返還請求権と同一の法律関係または同一の生活関係(事実関係)から生じたものである場合
をいうわ。
この説明で「初心者(代表)」はわからず、具体例を要求して、①については「窓ガラスが割られた場合の弁償(侵害賠償債権)」、②については「時計の修理代」を挙げる。
これでわかるだろうか?
一見、いずれも「元に戻す」ことだからだ。
ここで論理が役に立つ。
今朝がた、ダウンロードしたテキスト文書をプリントアウトすることでちょっとしたあった。
- パソコン(ハード①)上の印刷(設定)ダイアログボックス【メイン(タグ)】
原 稿サイズ:A4
出力用紙サイズ:原稿サイズと同じ - パソコン(ハード①)上の印刷(設定)ダイアログボックス【給 紙(タグ)】
出力用紙サイズ:原稿サイズと同じ - プリンタ(ハード②)上の印刷(設定)ダイアログボックス
原 稿サイズ: (忘れた)
これが、どうも
ラムダ計算では、というラムダ式で、 は においては束縛変数、 においては自由変数である。 にさらにラムダ式 が含まれる場合、 はこの中で再束縛される。このような入れ子の内側の の束縛は外側の束縛を覆い隠す。 における の出現は新たな の自由な出現である。
という内容を含んでいたのではないかと思うのだが(知らない。)、ロジックを解くと
- パソコン(ハード①)上の印刷(設定)ダイアログボックス【メイン(タグ)】
原 稿サイズ:自由変数2
出力用紙サイズ:束縛変数2 - パソコン(ハード①)上の印刷(設定)ダイアログボックス【給 紙(タグ)】
出力用紙サイズ:自由変数1 - プリンタ(ハード②)上の印刷(設定)ダイアログボックス
原 稿サイズ: (束縛変数1)
分かりづらいが、1は倍率のみを束縛して、2でドキュメントのヘッダー情報を受け取るらしかったので、
- パソコン(ハード①)上の印刷(設定)ダイアログボックス【メイン(タグ)】
原 稿サイズ:A4
出力用紙サイズ:原稿サイズと同じ - パソコン(ハード①)上の印刷(設定)ダイアログボックス【給 紙(タグ)】
出力用紙サイズ:A4 - プリンタ(ハード②)上の印刷(設定)ダイアログボックス
原 稿サイズ: (忘れた)
と2だけダイアログを操作して予定通り印刷できたわけだ。
なにしろ他人のお手伝いをしただけなので、方方確認せずに済ませて、こういう理解でよかったか自信がないが、どうも自分の経験ではこれで(7年ぶり?)3回目くらいということを思い出し、教えてくれた人に今さながら感謝した。
この理解で正しいかはさておき(特に今は気にしなくてよい。)、自由変数/束縛変数を留置権の牽連性の理解に使えることに気づいた。
①物自体 〈は〉自由変数(的)
②物と同一の関係〈が〉束縛変数(的)
このとき〈同一〉が〈自由化〉のロジックであって、西田幾多郎が、実在を指して可能の含意を言ったが、ここでは〈同一〉はひとつの述語として可能な命題を作ることを言う。
ここでわかり辛ければ、例えば、法学の伝統的な理解法として、価値を媒介させる。
物自体の価値が評価できるとき、〈同一〉は、それを引用して、付加的な価値を制限する。
すなわち、①は、x=x(同意律)であり、②は、f(x)(関数)である。
これがわかり(区別し)づらいのは、モノ自体の価値に「自然減」が認められるからであって、それを加味すると、原状復帰と表現する価値の大きさに違いが出ないからだ(1であるべきところ(命令:1でなければおかしい)、自然に反して0になったときに、1に復帰するのと、0になりうべきところ(自然:1≠1即0でなければおかしい)、1に復帰するのでは、後者は「付加的」と評価されるのである)。
要は、評価を介して
①同じ 当然
②「同じ」 括弧つき
とみなせることである。
P133「債務とは反対拘束的」
P138「裸の合意からは訴権は生まれない」
あと、『城の崎にて』の主題は単純に「生殺与奪」ではなく(それは表面的な現象で会って)、西田幾多郎が言うように、「偶然」と謂うときの(実在の)可能性を指して、(ベルグソン批判をした西田幾多郎を引いて)「生命」を説明したようである。
要は、5次以上の方程式は代数的に解けない時、超限的に解けるとは解析のことであるが、西田にとって、非連続的とは、何も非ユークリッドのことではなく、確率で離散量を扱うということである。
要は、志賀直哉が言ったことは、西田幾多郎と同じであり、志賀直哉としては当時の心理学の諸相に対して斜に構えた格好である。
そう考えると(「少年」ではなく)敢えて(人間観に立脚せずに人間像に立脚して)「小僧」と言ったのも興味深い。
なぜなら、明治期の「少年」は、大正期に「生命」を吹き込まれて、昭和期の「少年」となってゆくからだ。
志賀の から昭和の「熱血」へとなぜ、飛躍したのか、ミッシング・リンクの謎としてあったが、ピースはこれで埋まった。
大正デモクラシーは昭和のファシズムを準備したのである—少なくとも障壁となっていない。
志賀直哉は復員兵を避けたが、彼なりの係る哲学の為であったかもしれない。
太宰治をこき下ろして、これは言い返したともっぱらの評判だが、そもそも相いれないこともあったのだろうとて、同じ「太陽派」としても、平塚らいてうとも違うし、石原慎太郎とも違う。