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1曲目「CREEP」。いきなり失神してその後のライブを観れなかった人がいなかったかどうかが心配。
レディオヘッド、CREEPを演る (2009/09/01) 宮嵜広司の「明るい洋楽」 |音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)
漫画が面白かったのだろうと思う。
太宰治, No Longer Human (New Directions, 1958)
これはピンと来ない。
むしろ、Readioheadの"Creep"の方がニュアンスは近いと思し、レディオヘッドは、確か、カレッジチャートからでてきた当初は「際物」扱いに近かったと思う。
ブライアン・アダムスは、映画のサントラも手がけて、ハスキーボイスで世界中のスタジアム回っていて、僕もCDを2枚買った。
デフ・レパードも居た。
カナダ出身で、素朴な感じがして、要は、ニュージャージー出身のボンジョヴィがニュージャージーツアーでバーンアウトしちゃって、ボンジョビ・ロスみたいな感じだったのかな。ブライアンは、ああいう明るくて、セクシーな、性格好さげな好青年って感じ。で、ちょっと田舎臭い。
時代を超えた1000万枚以上ベストセラーアルバムの変遷(アメリカ編)|Extra便|TAP the POP
More Than Words
90年代になったら、潮目が変わったのか、アコギが流行り出して(どっちにしろ、MTVだけれど。)、そのときは、More Than Wordsとか、アンプラグドで演っている人居たね。
そんな中、カレッジチャートは、レディオ・ヘッドが出てきた。
その後に、
もあったね。ディカプリオの「美少年時代」。
同じ年の作品。(当時、文句なしの)世界一の美少年を称えて、いまやプレミア付き。
太宰の捉え方にもよるけれど、自虐的なのは、アメリカ人も嫌いじゃないよね。
で、実際に『人間失格』を読んでみると、ドナルド・キーンの"No longer"よりも、本当は、"Creep"だよね。
Such a weirdo. He is creepy.
"a weirdo"の方が、趣旨にあっている。
じゃあ、なんで、太宰が humanって書いたかというと、当時はわからなかったからで、その「わからなさ」を取り上げているはず。
それで、『格』という字を調べてみると、
『いたる』『地位』『法則』であって、権威乃至権力と関わってくる。
近代においては、社会乃至国家との関係に焦点が当たる。
そうすると、"disqualification clause"という話になる。
何がどう「欠格」なのか。
がなぜ、好いかというと、文脈の持つ権力性を相対化するからだと思うけれど、こういった専門的な技術が難しいときに、ちょっとした工夫を考えると、文脈の源泉が多義性にあるならばそれを逆手にとって「逆さ読み」をすることが何かしらヒントを与えると思う。
つまり、順路に従うとき、(意味の)分かれ道で指示を与えて一方向へ導くのが「文脈」であるならば、文脈に従うことが不必要な逆路を辿って、それを「意図」として浮かび上がらせようーある種の「異化」の試みで以て臨もうということであって、そうやって読んでみると(いつでも成功するわけではないので、批評技術に関して、オーソドックスな教育を受けておいた方が良い※)、
※いつでも成功するなら、文法だけ理解しておけばよいが、そうではないから、「現代(文芸)国語」では「物足りない」となる。
そんなプロバビリティを計算するのと同じ程度にばからしく
自分は、世の中というものの実体を少しずつ知って来たというわけなのでした
というのは実は嘘で、
つまり,どれが関心対象の真の母集団であるかがまったくはっきりしないのです。
それどころかまだ関心の埒外のことであるから
日常生活において、さまざまな選択肢が高確率であると述べられるのを聞いたとき、話し手が行為の基盤としてそれらの選択肢を正しく是認している(approval)と理解すべきである。
Kneale,William(1949).P.169 Probability and Induction,Oxford
或いは
その言葉は評価語である。ある命題がプロバブルであると述べるのは、これこれをすることが正しいと述べるのに近い。
Körner,Stefan(1957)ed.P19 Observation abd Interpretation,London
(『確率の出現』P30,イアン・ハッキング,慶應義塾だ学出版会,2013.12)という一方的な社会評価のことなのか、いい加減なさまのことなのかであるが、
あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、
ということであるから前者だろう。
『人間失格』で太宰が主張する「格」がそういうことで、それが地方生活にオーバーラップしつつ、生活の隅々について混濁して、語られるのであるから、実はこれは
といっしょで(ここでは、「確率」は「仮定」として証言されている。いずれにしても憶見である。)、偽論証じみて言い訳がましいということー太宰は酒飲みだから、道化だから、女たらしだから、ダメなのではなく(もちろん、それも問題を孕むが。)、言い訳がましいからイラつくのだ。それが「ダメ」なのである。
これが太宰の「ダメっぷり」の本質であって、太宰が本当に苦しむ原因だったはず。
それがテクニックではなく、性質として表現されているなら、要は、今なら
ということ(なお、トム・ヨークがどうかは知らない)。
ひとつひとつと(対象を)数え上げることではなく、スペクトラムな繋がりだったんだね。それが『はっきり』としない理由だったんだ。
ここで相対化されるのは、ドナルド・キーンが"human"に何を見ていたか、だろう。
下剤のくだりも何かのオマージュかー武者小路に何かあったかと思ったけれど、ぱっと思い出せなかった。
勘違いしていた。
こちらだった。
1906年(明治39年)7月26日に執筆開始。同年8月9日脱稿。「吾輩は猫である」の脱稿から10日後に執筆を開始し、完成したのはその2週間後であった。
翌年1938年(昭和13年)、雑誌『新潮』3月号(第35巻第3号)に終章「死のかげの谷」が掲載された。
1948年(昭和23年)3月より書き始め、5月12日に脱稿した。太宰は、その1か月後の6月13日に山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺した。
1949年(昭和24年)11月16日から1950年(昭和25年)2月9日まで『毎日新聞』に連載された
太宰治, No Longer Human (New Directions, 1958)
外国語訳はドナルド・キーンの英語訳(英訳題:"No Longer Human" )などが有名であるが、海外ではこの作品は少年への性的虐待を表現した小説であるともみなされており、宮地尚子がMike Lewに自身の所属するグループで読んでもらったところ「辛くて読めない」という人まで出現したということを、リチャード・ガートナー著『少年への性的虐待 男性被害者の心的外傷と精神分析治療』の日本語訳解説で語っている。
太宰治の『人間失格』が今アメリカで売れているというのは、そりゃ、伊藤潤二さんのコミカライズと『文豪ストレイドッグス』(とtiktok)が素晴らしかったんですよ。
いまだ「現代(文芸)国語」で十分と思っている人はすでに、高度情報化がもたらした、世界という新しい「世間」の多様性に、着いて行けてないんだね。
それはマーケットの話と同じと限らない。
また、おおむね「世代」の話であるようだ。
というのは、70年より前に生まれた、上の世代では、かつての学生運動(からの社会運動)にオーバーラップするようだからだ。
そういう世代を除いて、そういうことではない(おじいちゃんたちは、おじいちゃんたち、噛み合うどうしで、やるしかない。一般化することはできない)。
The Weird – The Hell Screen – Ryunosuke Akutagawapaperknife.wordpress.com