映画の原作にもなった小説「太陽が大好きだ」(63年)や「青い靴」(62年)など県内が舞台の小説のほか、童話、随筆、詩歌を収めた。33年に発表し、発禁処分になった詩集の「隅田河」も掲載した。
「社会主義リアリズム」を知るために読んでみた。
驚いた。
真っ先に思い浮かんだのが、
杉浦茂。
つまり、すごく戯画的であると思う。
そうだ、鈴木三重吉が「維新の血」をたぎらせた夏目漱石に島崎藤村のように書けと言われて戸惑ったのがわからないではない。
その鈴木が目指した地方語(方言ではない。)/中央語(どの方言を選択しても共通に表現可能な形式が「中央語」)をさらに推し進めたら、プロレタリア文学になるのだろうか。バルザックではないと思うがどうだろう?
やたらと、母乃至女性と愛を主題としている。また女かと思わないではないが、この「愛」を「熱血」にして男性だらけにしたら、「少年漫画」になるだろうか。
つまり、ある種の鏡像である。
ファシズムと共産主義はやはりそういう関係だったのだという感慨を抱いただけだった。
「こころ」が「苦悶」に変わったら大正デモクラシーで、「愛」か「熱血」なら昭和デモクラシーのようである。何が違うって方法的懐疑がなくなった。
だから漫画っぽいのだ。
markovproperty.hatenadiary.com
平野 さういふ自己批判の不徹底といふことね。それは例へば、プロレタリア文學運動が敗北して、その後に轉向文學が出て、一般にいへば不安の文學といふやうなものが發生したわけなんだ。あるひは主體的なリアリズムといふやうな、非常に個體的なものにアクセントを持つてをつたもの、それから行動主義といふふうなもの、浪漫派といふものが出て來た。プロレタリア文學の一應の枠が外づれたときに、混沌としたいろいろな芽が出て來たわけだ。その場合プロレタリア文學運動を擔當した主な人たちが、次に興つて來るいはゞ不安の文學といふふうなものをどういう風に見てゐたかね。
そら井伏も悩む。
今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ