測度論
があって、確率過程が成立した
確率微分方程式によって、解析的になり
20世紀(1900年代)の新しい科学が成立したのである。
そのころ、(当の)数学者は何を考えたか。
ハーディの意見は第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてのケンブリッジ大学とオックスフォード大学の学究的な文化に多大に影響されているといえる。
西田 幾多郎 1870年05月19日(明治03年04月19日) - 1945年(昭和20年)06月07日
ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ
1877年(明治10年)02月07日 - 1947年(昭和22年)12月01日
この『弁明』はソクラテスの弁明から採られている。
ホッブスもまだまだ誤解されているのは。
を見てもわかるが、この方が「間違っている」のではなく、学校で或いは参考書で「その程度」に教わるのである。
ホッブスが、伝統に則って「弁明的」に考えていたのは、以下の通り、明らかである。
ホッブスの「第〇」云々は、アンセルムスからゲーデルに至る「存在論的証明」のオーソドックスなスタイルである。
こういったことを教わる機会がないから致し方がない。
さて、そのホッブスは、論理学について命題計算を採ることを明言したらしい。
これもまた伝統的な態度である。
環虚洞 熔融鐵鐵斎
VINEメンバー
★★★★☆ まだ読了しておりませんが・・
2015年11月13日に日本でレビュー済み前半は、論理学、後半は数学的内容です。第1部は『計算すなわち論理学』と題され、「私は、推論を計算という意味に解する。しかるに、計算するとは、“足し合わされた複数のものの合計を見積もること、もしくは、あるものを他のものから引いた残りを認識すること”である。それゆえ、推論することは“足すこと”および“引くこと”と同じであるが・・略・・、それゆえ、あらゆる推論は “足し算”と“引き算” という、心の2つの作用に帰着する」という論議に、新鮮な印象を覚えているところです。
後半の数学的論議に関して、訳者は「本書の場合、数学的議論といってもその大部分は古典幾何学と比率・比例の計算であって、日本の教育制度下ならば中学卒業までに学ばれるテーマの範囲を出ない」とあります。そして、「本書の原文を機械的に日本語に訳し換えただけでは一読して何のことだか容易に理解できない可能性が高い」ので、訳者の判断で工夫をほどこしたとあります。
なるほど。参考になる。
数学について、ウォリスにしつこく論争をふっかけたが、迷惑な話だっただろう。
👇ホッブスはこのような理解に基づき、円積問題を「解いた」と豪語した。
1+1=2が正しい「理由(わけ)」 - 新人賞投稿作品 | ジセダイ
ぶっちゃけた言い方をすると、「人間の考えることに理由はあるから、その理由がわかればよい」という言い分だと思うが、円積問題とは、円を同じ面積の正方形をコンパス(等分割※)と定規(結線)で誰でも(可能に)作図(手続きに分割)できるかで、円周率の数としての性格を問うことと機能的に等しいか少なくとも関係があることが直ちにわかる。なぜなら、「作図」である以上、いくら面積を問うとはいっても「面積」を直接作図できない以上、作図した線分の操作の問題だからだ。
※「長さ」と「長さ」の比として表現可能か。
同じ種類の2つの量の比として定義される量は無次元量である
一方、
したがって、これが、(円周率は)有限な比として表現できるか、という問題と機能的に同じであるか少なくとも関係があるので、連分数を扱っていたウィリスの方が得意分野ということだったのである(いや、正しい理解かどうかは知らない。だいたい、そんな感じである)。
円積問題 - Wikipedia
そう考えると、無理数を習うときに同時に連分数を教えないのは、不思議な気がする。
今では当たり前となっている負数が 0 より小さいという考え方をウォリスは不合理だとして拒絶し、スイス人数学者レオンハルト・オイラーと同様に負数は無限大より大きいという見方を支持した。負数が無限大より大きいという考え方は、x を正の大きな数から 0 に近づけていくと 1 / x の値が無限大になることを根拠としている。それにもかかわらず、負数を左、正数を右に描く数直線の考え方はウォリスが考案したとされている。
グラフと関数を考えた2人の偉人だが、要は、ガウス平面を思いつき、複素数を同時にグラフで表示できるとした100年あとのガウスがいかにすごいか、ということである。
ジョン・ウォリス
1616年(#02秀忠12年)11月23日 - 1703年(#05綱吉24年)10月28日
レオンハルト・オイラー
1707年(#05綱吉28年)04月15日 - 1783年(#10家治24年)09月18日
次に賢明の発見した零約術(連分数展開)を用い、極めて精度がよい円周率の近似分数を見出した。略(『綴術算経』(1722年(享保7年))
なお、1722年は、第8代将軍吉宗の施政(就任)7年(目)である。
建部賢弘のエレガントさがイマイチ伝わらない。
和歴は明治以降の動きを見るときに便利だが(反対にこれを無視すると、当時の社会の持っていたダイナミズムを見失いやすい。それが人間なのだから、仕方がない)、江戸時代だと将軍の履歴を見た方がわかりやすい※。
※最新の歴史理解の情勢では、源氏、北条氏は(王家の護衛から勢力が発展して)王権を樹立したかどうかが焦点のひとつらしい。素人ながら、実質的な「王」でよいと思う(ただ、大日本主義者すなわち国際「法」主義者の新井白石は、「国王」から「大君」に戻したが)。
ホッブスの論敵の(数学的にはより正しい)ジョン・ウォリスの著作。
OPERA MATHEMATICA Vlumen Primum (数学譜 第1巻)
「オペラ」は「プリンキピア」と比較したくなるが、もともとの語義は
「オペラ」(opera)という単語はイタリア語で「仕事」「作品」を意味し、この語自体は同じ意味のラテン語「opus」(単数属格形 operis)の複数形主格「opera」に由来する。今日「opera」は単独で歌唱によって進行される演劇または楽曲作品を意味するが、元来は「opera musicale」(音楽的作品)と呼んだものの省略から、この語義が生じた。
同時代の
ピエール・ド・フェルマー
1607年(#02秀忠03年)10月31日 - 1665年(#04家網15年)01月12日
も「オペラ」を冠している。
"Varia"はバラエティーのことである。
カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ
1780年(#10家治21年)07月01日 - 1831年(#11家斉45年)11月16日
アントワーヌ=アンリ・ジョミニ
1779年(#10家治20年)03月06日 - 1869年(#00明治02年)03月24日
後年、クラウゼヴィッツは、Von (起点;前置詞)と言い(戦争論 Von kriege)、ジェミニは、Précis(特定;名詞)と言ったが(戦争概論 Précis de l'art de la guerre)、前者は(ルターの伝統である)神秘的、後者は明証的といってよいだろうか。また後者は「純粋」である。
また、これは今言えないが、マルコフたちの始めた(それまでの頻度的確率ではない)先験的確率(傾向的確率)と経済学でケインズの主張した主観的確率の比較もあってよい。
マルコフの金字塔"Об интегрировании дифференциальных уравнений при помощинепрерывных дробей(On the integration of differential equations using continued fractions:連分数を使用した微分方程式の積分について)"
https://library.istu.edu/hoe/personalia/markov.pdf※
※イルクーツク国立研究技術大学提供
ПМ-ПУ :: Андрей Андреевич Марков※
※サンクトペテルブルク州立大学提供
マルコフは、ロシアの作家プーシキンの小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を素材に,文章中に現れる文字間のつながりについての統計的な分析を行った。そして文字の系列などのように事象が相次いで起こるときに、各事象の起こる確率がそれに先行する事象の影響を受ける場合を考察する必要があることを見出し、マルコフ過程の概念を導入した。
すなわち、テキストから〈判断〉を取り除くことができたのは、イギリス人ではなく、ロシア人だった。
マルコフはパフヌティ・チェビシェフおよびアレクサンドル・リャプノフとともに、ロシアにおける確率論研究のよき伝統をつくった。
チェビシェフはイレネー・ジュール・ビエナメの発見したチェビシェフの不等式(ビエナメーチェビシェフの不等式)に証明を与え、大数の法則が使えるものとなった。
チェビシェフの不等式 - Wikipedia
Irénée-Jules Bienaymé - Wikipedia
フランス人の敬明(明けの明星)は一時脇に置き、ロシアのこの状況は、同時期に起きていた1870年代のジェボンズ(イギリス)、メンガー(オーストリア)、ワルラス(ローザンヌ)による限界革命に匹敵する「革命」だったことは疑いようがない。
チェビシェフには4000人の弟子がいたらしい。「食客三千人」みたいな話で、ホントかいな?
またロシア語訳の「伝道の書」ではその部分は Суета сует(スエタ・スエット)と訳されている。суета(スエタ)は現代ロシア語では「浮世の気苦労」、「せわしなさ」がすぐに 思い浮かぶ意味であり、「空」の意味は薄れている。もともとはサンスクリットの「シュニ ャータ」(空)と同一起源であった。聖書の同じ箇所でも、仏語と露語では受け取る印象が 大きく違ってくる。各国で単語の意味が歴史過程において変化してしまっているからである。
https://research-er.jp/researchers/view/583717
この方だろうか。
【オネーギン・スタンザ】 ➊➋➌➍/➄⑥⑦⑧/⑨⑩⑪⑫/⓭⓮
これが、
× | 1 | i | j | k |
---|---|---|---|---|
1 | 1 | i | j | k |
i | i | −1 | k | −j |
j | j | −k | −1 | i |
k | k | j | −i | −1 |
(四元数 - Wikipedia)
驚いたことに、四元数の変化パターンと類似している。
⊕⊕⊕⊕/⊕⊖⊖⊕/⊕⊕⊖⊖/⊕⊖⊕⊖
反対方向から見ると、
⊕⊖⊕⊖/⊕⊕⊖⊖/⊕⊖⊖⊕/⊕⊕⊕⊕
➊➋➌➍/➄⑥⑦⑧/⑨⑩⑪⑫/⓭⓮
上4行、下2行で美しさを、中8行で進行を表現したらしい。
なぜロシア人が、マルクスの与太話程度のことを信じたか、にわかに信じがたいが、「限界革命」が西欧のものだったことと関係があるだろうか?
日本において「大正デモクラシー」という看板を底で仏教が支えたように、そういうものが社会に必要だったか、有用だったかしたのだろうか。要は、ロシア正教の変奏として。
というのは、大正生命主義を(ベルグソンの一方で)形成した禅の影響は、廃仏毀釈の結果、伝統的仏教の社会への影響がそがれてしまっていたこととも関係があるらしいのだ。(後期)明治仏教の熱狂/大正仏教の があるらしい。
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン[注釈 1](ロシア語: Александр Сергеевич Пушкин、1799年6月6日(旧暦5月26日) - 1837年2月10日(旧暦1月29日))
これは便利である。