「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㊲

 

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デカルトが神の存在証明をしたのはおそらく大きな意味があって、すなわち、「わかる」ということは神によってすでに保障されているということ。
このとき、「わかるかどうか」で悩む必要はない。
だから、デカルトは、分かる経緯を説明している。

例えば、宝くじを買ったときに、もう宝くじが当選していることは知っているということだ。あとは、当選金をどう取りに行けばよいかを算段すればよい。
現代人の悩みが「どうすれば宝くじが当たるのか」であるのとは、本質的に異なる。

神学者、人文学者と言っても、割合近い概念を使って、おのおの説明しているということだろう。
どのような天才であっても、そうそう時代の持っている精神力を追い越すことはできない。


方法序説』という書名は略称で、書名を完全に表記すると、『自分の理性を正しく導き、いろいろな学問において真理を求めるための方法について述べる話』(白水社版『デカルトの著作集1 方法序説』)と非常に長大です。

P11,第1章曲線をめぐって―古代ギリシアからデカルトへ―,人物で語る数学入門,高瀬正仁,2015,岩波新書

 

デカルトフェルマの思索はライプニッツに伝わり、万能の接線法が発見されて曲線の理論が完成したのですが、ライプニッツは逆接線法という、接線法とは逆向きの計算法に着目し求積法が逆接線法に包摂されることを認識しました。曲線の理論がこうして完成し、今日の微積分の類型の一つが誕生したのですが、その際、ベルヌーイ兄弟(兄のヤコブと弟のヨハン)がライプニッツと長期にわたって文通を続け、語り合ったことも忘れられません。

PP215-216,あとがき―語り残したことなど―,人物で語る数学入門,高瀬正仁,2015,岩波新書

ソクラテスによる、コミュニタスな論証における、矛盾を逆手に取る中間項は、アリストテレスによる、三段論法における、アマルガムな中間項に受け継がれ、このとき政治が学術に変わったものを、デカルトが発掘してそれを発展させただろう(直接参考にしたのは、パップスの『数学集録』らしいが、ギリシア精神として受け継がれなかったか)。


 われ〈の〉思う So われ〈の〉ある

〈の〉はマルティン・ルターの所有格(イエスの恩寵はすでに「在る」)にて、命題(主語)論理上の(名辞と名辞の)包含関係をもって、述語(「思う」)が主語(「われ」)に帰属する修辞を為す(同様に、「ある(存在)」はこのとき、主語に帰属する「性質」である)。Soは、相同(帰属に関して同義、目的に応じて諸相な標示。この場合、「われ」に関して「思う」と「ある」が同義な別表現であること。c.f.相似)な左右の言明を繋いで、まるで数学記号における"=""≡"のような役割を果たす。
これは、カントに批判されたような経験を以て得られることではなく、純粋に合理的な(象徴の操作を以て明晰な。「思う」は、 realize で、考えを整理すること。)定義乃至論証である(この時点でのデカルトにおいてはいまだ不分明である☟考察)。


このとき、デカルトにはその未熟なフランス語で十分に表現しきれなかったのが、あの「コギト」(「コギト」自体はラテン語で説明した言葉のカナ表記。)であり、あらためて同様の論証を「神の(完全性の)存在証明」で施したが、「人間の理性の存在証明」に戻って来ることはなかった。

三段論法を完成させたのが19世紀のクリスティーン・ラッド=フランクリンであるから*1微積分を考えられなかったように、ルネ・デカルトにはまだわからなかったのかもしれない。

 

☞考察 デカルトの論証は近代的な命題論理だったか。

Negation(否定[否認・反論]の言葉[考え・表現) Not(否定・否認) /Invert(反転)
Conjunction(〔出来事などの〕共起、同時発生) And(合接・連言)
Disjunction(〔連結されたものの〕分離、分裂) Or(離接・撰言)
Implication(言外の意味、意味あい、暗示、含蓄、含意) Imp(包含・条件)

negationの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB
conjunctionの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB
disjunctionの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB
implicationの意味・使い方・読み方|英辞郎 on the WEB

だけを利用したのか。

A; 全称肯定命題 「すべての pは、qである」
E; 全称否定命題 「すべての pは、qではない」
I; 特称肯定命題 「或る   pは、qである」
O; 特称否定命題 「或る   pは、qではない」

まで利用したのか。

ON THE COPULA .
I shall adopt the convention by which particular propositions are taken as implying the existence of their subjects, and universal propositions as not implying the existence of their subjects. Mr. Jevons would infer that the two propositions 

  The sea-serpent is not found in the water,
  The sea-serpent is not found out of the water,

are contradictory ; but Mr. McColl, Mr. Venn , and Mr.Peirce would infer that the sea-serpent does not exist.
With this convention , contradiction can never exist between universal propositions nor between particular propositions taken by themselves. A universal proposition can bo contradicted only by a particular proposition, and a particular only by a universal. The above premises are inconsistent with

  The sea-serpent has (at least once) been found.

With this convention, hypothetical and categorical propositions receive the same formal treatment. If a, then b = all a is b = ' a implies b. (Peirce. )

コピュラについて .
私は、特定の命題はその対象の存在を暗示し、普遍的な命題はその対象の存在を暗示しないとする慣習を採用することにする。ジェボンズ氏は,次の二つの命題を推論するだろう。 

  海蛇は水の中にはいない。
  海蛇は水中から発見されない。

しかし,マッコール氏,ベン氏,ペイス氏は,海蛇は存在しないと推論するだろう.
この規約では、普遍命題の間にも、それ自体でとらえた特定命題の間にも、矛盾は存在し得ない。普遍命題は特殊命題によってのみ矛盾し、特殊命題は普遍命題によってのみ矛盾する。上記の前提は、以下のものと矛盾する。

  海蛇は(少なくとも一度は)発見されている。

この慣例により、仮説的命題と定言命題は同じ形式的扱いを受ける。もしaならb=すべてのaはbである=' a implies b. (Peirce.)である。

P23,ON THE ALGEBRA OF LOGIC,BY CHRISTINE LADD,IN "STUDIES IN LOGIC",1883(翻訳はDeepL Translate: The world's most accurate translator

このとき、So はどれに当たるだろうか。
むしろ、アンセルムスの(元祖)「神の存在証明」と呼ばれる「(三位一体と)イエス(の救済)の存在論的擁護(確認)」、つまり現代の訴訟法においても「建設(創設)的」「確認的」な場合があるのと同じく、むしろ後者の場合であると考えた方が違和感は少ないように、デカルトにおいて「本音ではコギト(Consequence:帰結)と謂えばよいかどうかの判断ができていない」ことが、「相同」であって、スコラ哲学に由来すると考えられるかどうか、すなわち、オッカムが神と神学を否定しなかったように、デカルトにおいてもやはりそうであったことから考えられる当然の理があるだろうかを思う。

今までの歴史は「近代化の美酒」に酩酊している状態だと言われても不思議ではない。

【復習】
論理学の歴史 - Wikipedia
 1.1.4 命題(メイダイ):proposition,易しくない論理学
命題論理 | 論理 | 数学 | ワイズ
命題論理 - Wikipedia

 

デカルトSo(相同)は数学的には「変換」に近づく話ではないかと想像できるので、次は、ラプラスに進む。

ルネ・デカルト          1596年03月31日 - 1650年02月11日
ジャン・ル・ロン・ダランベール  1717年11月16日 - 1783年10月29日
ピエール=シモン・ラプラス    1749年03月23日 - 1827年03月05日

ダランベール力学の大きな功績は、ニュートン力学を肯定しながらも、そのなかにみられた神の影響を払拭した点にある。

ジャン・ル・ロン・ダランベール - Wikipedia

最終的には「形式」(ディレクレ形式)に向かう話ではないかと想像するが、『確率論と私』(伊藤清岩波書店;P148,確率解析の研究を振り返って)を図書館へ返却する期日が明後日となった。


カントはデカルトへ向かって何を言ったか。

 仮定1 悪魔は魔力を持つ。(定義)
 仮定2 もし悪魔が魔力を持つならば、悪魔は存在する。
 結 論 ゆえに、悪魔は存在する。

このような「存在」の用法を強く批判したのは、カントである。彼にとって、「存在」は「完全」の一性質ではないし、「魔力」の一性質でもない。
(略)
したがって、彼は、デカルトの推論の仮定2を否定し、証明そのものを拒否したわけである。

PP211-212,デカルト存在論的証明,3神の存在論的証明,Ⅳゲーデルの神の存在論ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎,1999,講談社現代新書

カントは、『事実上の存在は、概念と事実の経験的な対応においてからしか得られないと考えた』らしい(同上)。
われわれがそもそも宝くじが当たるかどうを悩むわけである。

そこでホッブスの登場である。
近代的個人は近代的市民となって、「現実」を見始めたわけである。
これが一連の存在論的証明の伝統に則っていることに留意しなければならない(したがって、ロックではない)。
デカルトが数学に天才的な業績を残し、ホッブズが同時代の敬明なウォリスに絡むことしかできなかったことが、対照的である。

*1:"On the Algebra of Logic" in Studies in Logic, C. S. Peirce, ed., pp. 17–71, 1883.