「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㉝

伊藤清『確率論と私』
岩波書店,2010.9

Ⅰ 忘れられない言葉
忘れられない言葉    
数学の研究を始めた頃    
直観と論理のバランス P10 高木貞治先生に初めてお目にかかったのは、昭和十年(一九三五)四月に東大数学科に入学したときです。しかし先生の著書に接したのは、それより前で、郷里の図書館で、先生の『新式算術講義』(博文館、一九〇四)を読んだときです。算術というのは小学校の数学(算数)のことですから、何気なく聞いて見て驚きました。実はこの本の内容は現在の実数論で、有理数から無理数を厳密に定義する方法として、デデキント、ワイエルシュトラウス、カントルによる三方法を詳しく説明してありました。
Ⅱ 数学の二つの柱
科学と数学    
数学の二つの柱    
かわった学生    
色即是空、空即是色    
Ⅲ 数学の楽しみ
数学者と物理    
オイラー応用数学 P46 オイラーは現在解析と呼ぶ分野を無限解析と呼んで、有限解析(代数学)の延長と考えていた。両者を繋ぐものとして極限を形式的に用いているが、その数学的定義を厳密にすることには思い至らなかった。無限解析では「aがAに比して極めて小さいからA+a=Aとなる」というような論法がいつも用いられるから、無限解析は不正確な理論であるというような議論がしばしばおこなわれた。
数学の楽しみ    
数学の科学的側面と芸術的側面    
Ⅳ 確率論とは何だろうか
確率論の歴史    
組み合わせ確率論から測度論的確率論へ    
コルモゴルフの数学観と業績    
Ⅴ 確率論と歩いた六十年
確率論と歩いた六十年    
確率解析の研究を振り返って    
Ⅵ 思い出
秋月先生の思い出    
近藤鉦太郎先生と数学    
十時君のい思い出    
河田敬義君の思い出    

意外なことに、伊藤清先生も、仏教に触れている。

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物を數ふることゝ物に順序を賦すること卽ち番號を附くること、心の此二つの作用には密接なる關係あり。

足立恒雄は手厳しい。このとは別の言葉への評価であるが『哲学的な言辞を弄する』(p62,3.6同値類別による定義,3ペアノの自然巣論,フレーゲデデキント・ペアノを読む,足立恒雄,2013,日本評論社)と言っている。

これらの断片を読むだけでも、あるいはさらにサボって「数は思考の外に存在する実在ではない」というハンケルの言葉を知るだけでも、先述のクラインや、当時の数学思想を紹介した高木貞治の『新撰算術』(1898)、『新式算術講義』(1904)における「ハンケルの原理」の解釈がいかに表層的であったかがわかるだろう。

PP40-41,2.3 ハンケル(1839-73),2現代数学の夜明け前,フレーゲデデキント・ペアノを読む,足立恒雄,2013,日本評論社

『これらの断片』の『これら』とは、数学史上名高い、特に高木貞治の時代にはそうであった「形式不易の原理」(周知の計算規則は新たに導入すべき数に対して可能な限り、、、、、保存させねばならない)を主張したハンケルの『複素数体系―特に一般複素数およびハミルトンの4元数』において『新しい代数学の勃興の必然性を高らかに予告』している内容の一部を引用したものである。

クラインはその原理を負数のかけ算が長方形の面積を求める式から求められる例を挙げ説明した。すなわち、長方形の面積=縦×横=(A-B)×(C-D) は、そもそも論として、A=B=0では成り立たない想定で、すなわち「特殊な場合」を計算しているはずなのに、その場合にも適用して(-B)×(-D)という負数のかけ算に応用し、「一般的な場合」でも計算してしまおうとする性癖(『不可避的な傾向』)持ちという厄介な「事実」を指導原理として昇華させたのがハンケルの主張した「形式不易の原理」だろうと、腐したのか、褒めたのか、よくわからないのが、クラインの理解であった。

しかし、ハンケルが考えていることはそうした教育的効果しかない説明原理ではない。

P39,2.3 ハンケル(1839-73),2現代数学の夜明け前,フレーゲデデキント・ペアノを読む,足立恒雄,2013,日本評論社

だから、足立先生は好きである。
自分の思ったところで、伊藤清にとっては、だから教育効果があったと思う。
これを読んでいると、なんで中学校の数学は、この「説明原理」から始めないのだろうと不思議に思う※。それはそれとして。
※ただし、自分のような者の性癖として、「そもそも、、、、変だろ」とちゃぶ台返しをしてしまうのは必定だ(実際、そもそもそもそも、、、、開き直りなのであるが、可能な命題への開かれでもあるので、このときの発達段階におけるそこで開き直れる精神的成長、、、、、は、重要だ)。それが自分なりのアプローチだからである。

すなわち、(上記「断片」から読み取れることは)『公理主義を先駆けるもの』であり、『モデルの存在が実在性の根拠になること』であり、要は、現代的な抽象数学に繋がる構想を胚胎していたということである。

その内容は高木が日本に紹介した時点でも,なお普通の数学者には理解が及ばなかった思想だっただろう。

P42,2.3 ハンケル(1839-73),2現代数学の夜明け前,フレーゲデデキント・ペアノを読む,足立恒雄,2013,日本評論社

これは含蓄が深くて、高木貞治の数学史上の金字塔としてもっとも著名な業績にしても

絶対アーベル拡大体 Kab の記述は類体論によって得られる。類体論はダフィット・ヒルベルト自身と、エミル・アルティンと20世紀前半の他の人々により開拓された。特に、高木貞治は、絶対アーベル拡大体が存在することを証明した。高木の存在定理を参照。しかしながら、類体論の中で Kab を具体的に構成することは、最初にクンマー理論を使いより大きな非アーベル拡大を構成し、それからアーベル拡大へ落とし込むことでなされるので、従ってアーベル拡大のより具体的な構成方法を問うているヒルベルトの問題の解には至っていない。

ヒルベルトの第12問題 - Wikipedia

ということである(がよくわからない)。

それと、高木貞治は、菊池大麓がケンブリッジから持ち帰った数学を小ばかにしてイギリス行きの約束を守らずドイツへ行ってしまったということがあった。菊池大麓の翻訳した教科書には「四元数」が載っていたのであるが、高木貞治には、ドイツの先進性に比べて、そんな計算が野暮に見えたのであった※。
実際は、「形式不易の原理」を同じくイギリスのピーコック(1791-1858)が『代数学』ですでに提唱していたのだが(同値形式の普遍性原理)、『ドイツでは知られていなかったということであろう』(p42,足立)ということだ。
このときピーコックが始めたのが算術的代数と区別した記号的代数で、それをハミルトンが4元数で受け継ぎ、これを大陸へ紹介したのがハンケルであった。
記号的代数にフレーゲが着目したのであるが、それへの批判が、足立本の眼目である。
すなわち、論理主義に悖る、というのだった。
そうすると、反対に(明言されないが)、高木貞治は随分と直観的だったことになる。

記号代数とピーコックについては、『抽象代数の歴史』がもう少し詳しい。

ケンブリッジ大学の数学は教養学の一部であり,学生の論理的訓練に用いられる絶対的真理の典型とみなされていた.
(略)

これらの記号は解釈を要求しない.こうして記号代数は記号演算の新たな主題となり、ここでの記号はいかなる特定の対象もあらわさず,ただ算術代数の演算法則に従うだけである.
(略)

それは本質的に記号代数の法則が,算術代数の法則そのままであるべきだという天命に従うということである(これらの法則が一体なんであるのかは,当時は明らかではなかった.それは19世紀の後半に環や体の公理だということで明らかになった).

P17,1.8記号代数,第1章古典代数の歴史,抽象代数の歴史,

面白いのは、昔は「神の存在証明」も熱心に行われたが、「負数のかけ算の証明」もそれに劣らず魅力的だったのだ。オイラーは、-АBは(-A)×Bなので、(-A)×(-B)は-АBでないのがわかるのだから、ABに決まっているだろ、と何とはなしのことを言っている(オイラーは意外に、「いい加減」の天才でもあったのだ。これを私は数学的マリーシアと呼んで推奨している)。こういうときニュートンは驚くべき直観を示し、負数は0よりい小さいだろうと言って、ライプニッツの、そりゃ「中間」だと言ったことより、頭一つ抜けていた。存在と非存在の中間だというのだが、さてどういうことか。

ライプニッツが実は法学から確率を学んだのには不思議な出会いが関係して、ライプニッツの師にあたる人物が、エアハルト・ヴァイケルという人物で、このエアハルト・ヴァイケルなる人物は、デカルト幾何学をまったく知らないが、ユークリッドの公理を信奉していて、しかももっぱら突拍子もない計算を趣味として、法律に精通するという不思議な人物だったらしい。

当時37歳、働き盛りのヴァイゲルは、また学者の共和国のリーダーとして、「探求者の会」という集いの会長をつとめ、毎週新旧の書物についての論評と討議を行って若い世代を触発していました。

「ライプニッツ通信II」/工作舎web連載読み物

いや、立派な人物だったようだ。

ライプニッツはユスティアヌス法典(ローマ法)に則り、『法において、何かに対する私の権利は、絶対的(purum)であるか、無(nullum)であるか、あるいは条件付きかであるかだろう』(P147『確率の出現』)と述べ、「条件qならば、命題r」と表現した。このとき、「絶対的」ならば1で、「無」ならば0で、「部分的」ならば分数で示した。ここで、分数とは、論証の度合いを表したが、要は、法学者として主張すべき自己の財産権の主張の確からしさのことであるから、ここで、分数は、数直線に従うというよりも、どうも帳簿の原理に従って対称だったのであるから、負数とは、「不利益を負う確からしさ」と言って違和感がないよう思う。

  • ユヌティアアヌス法典に則り
  • 条件付き命題論理を用いて論証(証言)するため
  • ユークリッド的な公理主義を採り
  • 証拠の確からしさから
  • 帳簿上の対称を以て

分数(蓋然性)を表記したのであった。ちなみに、微積分ではライバルはニュートンだったが、この分野でのライバルはジョン・ロックであったらしい。その際、パスカルを大いに参照している。ライプニッツは基本的に法律家だったのだ。
しかし、おかげで、『法を自らのモデルとして、確率が「わかっていることに比例する」のを当然とし』(P151)、『法律を手本にしたおかげで、認識に関する確率の条件付きという特性に気づいたのである。』(P152)ベルヌーイはライプニッツの法律知識に倣ってそれを「純粋な状況」と「混合した状況」に分けた。

今では当たり前となっている負数が 0 より小さいという考え方をウォリスは不合理だとして拒絶し、スイス人数学者レオンハルト・オイラーと同様に負数は無限大より大きいという見方を支持した。負数が無限大より大きいという考え方は、x を正の大きな数から 0 に近づけていくと 1 / x の値が無限大になることを根拠としている。それにもかかわらず、負数を左、正数を右に描く数直線の考え方はウォリスが考案したとされている。

ジョン・ウォリス - Wikipedia

※この数学にファッションを見ることは珍しくないのか、伊藤清もポール・レヴィに出会うまでは、確率論が『貧弱』(P7,伊藤)に見えたのだった。


ウォリス積分 | おいしい数学

ごちそうさまでございました。
ありがとうございます。勉強になりました。

藤沢利喜太郎の1895年(1902年訂正版)の『算術條目及教授法』に次の一節があります。 「けだし,不尽数の自然的,数学的なる解釈を得て,量と云う観念を純粋なる数学より排除することは数学者多年の希望なりしなり。デデキンド,ベルトラン,カントル,タンネリー,ジニー,ハイネー,ワイアシトラス,クロネツケル,リプシツツ等諸氏のこの事に関する尽力の功は空しからず。今日は最早,外物の補助を借らずして,純粋の数学的道行きにより不尽数を整数分数より導き来ることを得るようになれり。算術,代数,整数論微積分等の数を論ずる数学諸科をして,数以外の観念より純粋にせんとする数学社会多年の希望は満足せられたり。」(国会図書館近代デジタルライブラリー」所収,137頁)

パスカルはなぜ負数の存在を理解できなかったか | メタメタの日