なるほど。これは「確率問題」以前に、「論理問題」で、実はよくある「嘘つき」問題だ。
- 論理問題であるがゆえに、アルゴリズムの理解が求められる
- 「嘘つき」問題であるがゆえに、関数(自己参照する引数を持つ)問題である
らしい(正しい語彙かは、とりあえず、脇に置く―特に「関数」)。
したがって、パラドックスを生じるらしい。
確率問題としては、
ボレル=コモゴルフのパラドックスがあるらしい。
コモゴルフは、公理的確率論の金字塔を打ち立てた、歴史上尊敬すべき数学者の一人であるが、要は、サイコロの数当てに過ぎなかったものを、形式論理を用いることで、一般化したのである。
まずは、論理構造を把握するのが、常道だろうと思う。
ここは、実は、18世紀までの、ライプニッツ・オイラーの打ち立てた近代数学の「華」で、記号化されていると計算に頼ってしまうのだが、そのロジックがわからないのだ。
それを高々「国語教育」と言っていると、
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「できる生徒」と「できない生徒」の差が埋められなくなってしまう。
もともと学力なんて所詮分布だから、そんなものですべての生徒をいっしょくたにできない、とも言えるが、「リテラシー」という場合には、社会の一員として一般的に求められる知識とそれに関する理解力、或いは、理解を求めようとする態度(二次的―つまり、親密圏における参照を経て、自己確信される―価値評価)とも関係するから、「市民教育」としては、(社会統合に関して)難しい問題を孕む。
すなわち、情報社会になって大衆社会が新しい局面を迎えていて、より洗練される必要が出てきたのだ。