「ヴィトゲンシュタインの高評価」を考えるときには、どうも「カント・プログラム」という範疇の問題と、「フレーゲの低評価」「クリスティーン・ラッド=フランクリンの低評価」を考えるのが、自然であるように感じる。
要は、なんでもかんでも
ポパーは多方面に渡って批判し、論敵を作ってきた野心家だったらしい。
論理(実証)主義は、主体的な〈判断〉を許さず、心理主義を非難とした(「心理主義的」ということからもはや非難の言葉である)。
このとき〈経験〉が問題となるが、
ヴィトゲンシュタインが「変わった」論理主義者なのは、心理主義を毛嫌いしていないことにあるらしい。彼はむしろ、「カント・プログラム」(主体自身による純粋な演繹体系による「世界」の説明)の成功者を自認もしくは目指していたようであり、論理的に「語り得ないもの」への言及はあるが、それは「説明できる」かどうかの技術論であり、説明できないからと言って排除するものでもない。
なんのことはない。古典的な である。ゲーデルの先駆けと言ってよいが、技術的には、未熟であるようだ。結局、技術的には、どれだけ嘯いても、フレーゲ(ラッセル)ーゲーデルの中間にあって、思想的には、(新)カント主義なのだ。
かつて、キリスト教が、どれだけ異端視しても、ギリシャ哲学から逃れられなかったようなことである。「無から有を生み出した」唯一の信念体系というのは、実は嘘だからで、同じことをアリストテレスは自己の三段論法を評価して言っている。したがって、キリスト教は、論理主義(言語が媒介)であることを禁じていたのだ。「信仰」とは直観的なことである。デカルトが現れたために、カントが二者の調停に乗り出してパージし、ヴィトゲンシュタインはこれを踏襲している。
或る意味で経験を巡る数学と科学の範疇論争と謂えるが、だから、20世紀最大の数学者であり先導的な科学者でもある、フォン・ノイマンの『数学者』に詳しい。もちろん、カントへの言及もある。
数学者と科学者がいつでも仲が良いわけではない。
ガリレオ・ガリレイらによって確立した、数学と科学の蜜月は、いつも間にか、終わっていたのだ。
- 主体の問題(論理主義的問題)
- 真理の問題(方法論的問題)
- 経験の問題(構造的「失敗」の問題)
ポパーの議論は以上のように大雑把に分けられるらしい。
ポパーは、要は、科学は社会的に有用な競争の原理を以て発展してきた、と言いたいらしい。すなわち、科学とは、「人間にわかる程度」の技術的な問題であり、しかし、その「わかる」は、主体な〈判断〉に委ねる規範的なものであってはならず、方法的に比較可能(な程度に対象化を施す技術に委ねるもの)でなければらないとする、19世紀の科学革命の方法論を踏襲しているに過ぎない。
「人間原理」と呼ばれることを肯定的に認めているということだろう(そもそも人間を離れて科学が成立する意味がない。その意味で、科学は、永遠に社会技術に過ぎない。反対から言うと、人間がいくら宇宙に恋焦がれても、宇宙は人間へ見向きもしない。しかし、孤立していないと考える時、ホーリズムで在り、いや見向きをすると考える時、科学は宗教となる。「無目的」と考えるのは、意外に、人間にとって難しく、数百年の訓練を得なければ獲得できなかったのだ。自然に考えて得られることではない、ことが、まず第一の前提となる)。
なんのことはない。
〈主体〉に〈できる〉範囲で〈わかる〉程度のことを〈主体間〉で〈競争的〉に繰り替えす。このとき〈主体間〉の間でも〈できる〉範囲と〈わかる〉程度が二義的に生起する。
ということを言っているらしい。
カール・ポパーヘ言及は4箇所。「在る」ことを考えるのには意外と苦労したのだ。
そこでは、法学も宗教も十分大きな役割を果たしてきた。何度言ってもよいと思うが、ライプニッツが法学者でなければ、確率論は成立しなかった。ただの(相対的な)「頻度論」だったのである。
ヴィトゲンシュタインへの言及を見ると、いきなり「2n」云々と〈数〉の話になるが、だから、難しく感じるのだろうと思う。
数学は、いきなり「数学」だったのではない。それが自然な感情ではないのだ。
〈数〉はいきなり〈数〉だったのではない。まずは〈量〉だった。
4源流「読解」(語彙)「表解」(対照)「図解」(開閉)「盤解」(巡回)を持つとの主張を行っているが、もとより、対象とされたシンボル体系のうちに(それ自体が)規範力を有するとの信念が底に在る。
「読解」に関して、日本人の数詞から、ヴォトゲンシュタインを考え始めてみたのである。素朴な対象で十分説明できるのではないかと思う。
答え合わせ
ポパーは、カント哲学の継承としての超越論的立場から『論考』におけるウィトゲンシュタインの哲学を批判した。その批判の主要点は、ウィトゲンシュタインの哲学が認識論における二つの基本的問題である帰納の問題(ヒュームの問題)と境界設定の問題(カントの問題)の解決に失敗しているという主張にある。くわえてポパーは、ウィトゲンシュタインが哲学から真正の問題を追放し、哲学の課題を言語的明晰化の活動に限定したことを拒否する。
また、
彼が問題にするのは、知識が公的な知として、つまり科学的な知識として公に承認されたり、あるいは廃棄されていくダイナミックな過程において用いられ、そして科学の「客観性」を支えていると言われている方法である。ところが、ポパーによれば、超越論的方法は、いままで、首尾一貫して用いられてこなかった。それは、カントでは認識心理学の方向へそれてしまったし、カルナップやウィトゲンシュタインでは、科学で用いられる概念や記号、そして言語の問題へとそれてしまったとされるのである。
まぁまぁ、かな(自分が)。
私の素朴なイメージとして(ゴッセンらの限界革命後の)「自由競争の失敗」と「正義論」があったから、「社会性」をどこかに入れたいと思っていたが、ここでそれを「超越論」と呼ぶのは、科学者における「負荷なき自我」ではないかと思う。
一見すると、ポパーがカント主義者のように読めるが、ポパーの議論の流儀として、相手の論調に沿って議論を進めた上で徹底的に批判するということがあったらしいので、(ここからは直接読み取れないが)やはり、ヴィトゲンシュタインがカントリアンではなかったか?知らない。
石本新「世界の名著v.58:『ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド』(中央公論社)訳者解説」 - バートランド・ラッセルのページ
ウィトゲンシュタインによれば、言語に階型などありえない
バートランド・ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社)訳者解説 - Bertrand Russell のページ
自分の分類では、ここらへんはくるっと、「主体問題」でまとめているのだけれど(デカルトの実在論を批判して、主体と主語を分離したのは、カントである。)、これはポパーの「超越論」への反論ともなるのではないだろうか?知らない。
ラッセル(のパラドックス)には、 の言う、近代主義者における「抽象と具象の混同」が、幾分か見られるからだ。ここで、ヴィトゲンシュタインの「関数」の意義が問われる。
形式論理における、タイプと関数
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ヴィトゲンシュタインを「数詞」から理解するとき、ペアからなる「数詞」の意味論において、「7」は、ラッセル的な「枚挙」の反例(のライプニッツ的な数)であるか。