今日の社会

それは「期限」には(もとより「条件」と区別されて)「期限の利益」を設けていることと同じであるから、その利益を喪失することの意味を考える、ってことだね。

これは「確かさ」を前提とした計画性のことであるから、精神的な発達が十分それに及んでいない場合には、意義を説いて、訓練させる必要がある。

それが先生の役割だ。

ただし、「そんなこと小学生のやることだろう」というのは早計で、大学生でも難しいから、大学の先生たちが今ツイッター上で「喧々諤々」

「喧々諤々(けんけんがくかく)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書

している。

曰く、

  • 提出物が形式的な要件を満たしていない
  • 論題に答えていない
  • 文体が混乱している
  • 低評価の意味を理解していない(政治的立脚点の違いへ帰着する短絡さ)

等々。これを聞いていると、いかにも技術的な問題に思えて、実は、精神的能力の発達、成熟が問われているのだ。

典型的に現れているのが、『心理学の専門書を1冊読んだうえで』と条件を付しているのに、正しい内容を伴っているがために高校の倫理の教科書を読んで済ます事例だ。
「〈私〉は正しい」「正しさはそれ自体評価されるべきである」との、前提というより、習慣と自認識に立つ。要は、小中高と、ずっと、その体でやってきて、「間違いなかった」のだ。

この場合、正しい/正しくない、ではなく、私/あなたの立脚点を建設的に置かななければならない。それには精神的な負荷がかかる。
それを幼いままでは受け入れられない、という問題が厳然とあるのだ。

或る教師は、権力問題に触れて、教師と学生の間よりも、学生どうしのほうが、より汲々としていると言った。
学生が「高校の教科書から引用するなんて、それおかしいよ」と別の学生に指摘しても、プライドを刺激して反発をくらうことを意味している。そして、その「正しさ」を証明するために、是が非でも(対抗的、、、に)、「高校の倫理の教科書を引用したまま」提出しないわけにはゆかないのだ。それが「〈私〉の存在証明」である。
必要なのは、教師と学生の間の、主体としては対等な関係の認識であり、そのうえで(対等な主体間に於いて)「請け負う」ことで現れる権力関係である。
要は、より「労働」に近づくのだ。

  貴方たちは「学生」という名の「労働者」である

 

と言わなければならない。したがって、計画的であれ、と。
また、だからこそ、彼らの権利は護られなければならない。
集団内に規範を確立するとはそういうことである。

仕事と労働の違いは,「『仕事』とは,誇りをもってすることである。強制されているわけではなく,むしろやる気に満ち溢れている。達成は社会的に素晴らしいこととされる。一方,『労働』とは,完全に生きるためだけにやっていることである。従って,やらないで済むならできればやりたくないことである」である。

№721「仕事と労働」 - 教育出版

学生は、自我を傷つけることなく、労働に主体的に従事しなさい。