「ミスコン」より「マッチング」の時代

これは非常に興味深いわりにほとんど顧みられないけれど。

これはパラドックスというか、  の箱だよね。或いは、シュレディンガーの猫(あくまで比喩)。

開くまでは多様なんだけれど、開いた途端に多様性が失われる。

「ミスコン」って人間の持つ可能性のひとつに言及するにすぎないから、「多様な価値」に根差すことができる(可能態)。

だけれども、開催すると、一価に執着する。
ちまり、これは表現論でなく、権力論のロジックということ。
この反対にあるのがマッチングなんだけれど、巷間のマッチングサイトが「危ない」のはよく知られている。つまり、そこで「危険」とされるは、外部性のことだ。
このとき、「規制当局」が求められるのであって、何も公的機関がそれを実現するまでもなく、公的であることがある程度実践的に確認されればよい。これが、「お見合いコンサル」だ。マッチングの「信頼できる」デザイナーのことである。

そこでは、「ミスコン」で排除された多様性が、逐一(1対1)性によって、実現されている。要は、∃∀の話法(順序を持った説明)じゃなく、∀∃の話法(順序を持った説明)である。

反対に「ミスコン」はまことに形而上的な問題を胚胎してしまう。
みなさん、今や「ミスコン」ではなく「マッチング」の時代です。
しかし、それには信頼できるデザイナーが必須でしょう。

だから、同志社なんかだと、関西ローカル伝統の「集団お見合い番組」にすれば問題は解決すると思う。

 それで何を「コンテスト」するか?

お答えしましょう。(形而上的に満足な)素敵なカップルを選ぶことになるでしょう。
つまり、単なるコンパに終わらせない価値を持たせられるか。
こういったパートナー或るいはパートナー選びっていいよねって思える価値の提供である。
それが「関西力」です。
容易に思いつくのが、
①多様な性のありようをどうするのか
②「選ばない」ことも含めた、多様な選択をどうするのか
①はエントリー(主体)の話ですので、エントリーの主権を握るのが誰かの話です。
②は論題(客体)の話ですので、客体への主権を握るのが誰かと客体の主権を握るのが誰かを同時に考えることになりますが、これを(再帰的に)主体に帰着させることとなります。したがって、「パートナー選び」なのだけれど、それがあくまで「個人の尊重」の一表現であることが求められます(このときに、恋愛にそもそも興味がもてないため「パートナーを選びたくない人」を許容することとなります。すなわち、「パートナー選び」の条件からの解放です。条件ではなく表現です:ここに形而上的問題の解決が認められます)。

これはマーケットが多様な価値を許容しうることをいっています。
1920年代からアメリカで議論され始めた、プラグマテズムについて述べています。すなわち、所謂「マクドナルド化」をどう考えるかです。ここでの文脈に従うならば、「資本主義の論理」ととらえるか「消費者主権の表現」ととらえるかです。マクドナルドがあった方が貴方は幸せになれるのか、マクドナルドなんてない方が貴方は幸せになれるのかを、それに直接言及するのではなく「マクドナルドがある社会」を置くことに依って、貴方に問うています。デューイの道具主義的理解です。)


 

まぁ、説得力はあまりないけれど、言いたいことは分かる。

炎上された方にはまことに気の毒な状況みたいだったようだね。ます実はこれは在る美大における「意図しなかった過剰な表現」による精神的被害の問題といっしょで、コミットメントの話かな。
そのうえで(それに代表されるように)リスク負担が受講者に偏り過ぎていて、「個人擁護」のケアがなされていないことが問題じゃないかな。
「選択の自由」を謳いつつ、それが実現されていないデザインの問題。
本質的に(「表現問題」であって)「条件問題」でないにもかかわらず、(表現技術が)条件的に(「技術」が「条件」に転化されて)実現される。

 

 

 

人権教育が一般的に行われていない状況に置かれた受講者に対して、人権乃至人格が攻撃されることの被害性を実感することになるけれども、「責任」として(「責任」が正義に根差して社会からの不利益命令という本質を持つ以上)誰にも帰着しないがゆえに自己に帰属する乃至とどめ置かれる「無答責問題」とどう向き合うかのデザイン次第なんじゃないかな。
また、責められはしないけれども、ばかげた行為というのは、確かに在る。そして、その馬鹿馬鹿しさになかなか気づかない状況も確かに在る。そこに条件が関わってくるわけだけれども、それは主体の自明的な価値に根差した社会デザインとは別の問題だろう。でも、確かに在る。それを「オリエンテーリングすること」が社会的に求められている実態もある。

すなわち、現代の(家庭や社会も含めた)教育機会の提供がナローでかつ乏しくなっているから、それへの危機感だね。
今では、学生に学生生活のオリエンテーリングを生活上の諸問題に対して実際にサービスとしてバックアップすることで求められえている。
「わからなかったら聞きに来て」じゃだめだし、「教えてあげる」でもダメな場合がある。もうプロ支援だよね。本当に親の代行業だよ。反対に言うと、親の教育機能か教育機会が乏しくなっている。難しいのは、親が頑張っていないわけじゃないこと。ムカシ以上に子供の教育に親が全人格をかけて巻き込まれている。教育の市場一元化だね。
これは政府の所為とは一概に言えないんだよ。
ルールの徹底を声高に叫んだのは、元学生闘士の、予備校教師たちだ。
「1点でも曖昧な問題は許さない」
との宣告だ。それは受験生の擁護を動機としつつ、受験生を、、、、より受験適応的にすることを、受験の在り方を問う迂回的な仕方で、実現してきたんだ。

一緒なロジックじゃないかな。