『ごんぎつね』が「読める」とは

 

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小3理科「音を出してしらべよう」指導アイデア |みんなの教育技術

つまり、詩的な表現に触れ、その文中の手がかりに着目して、社会や理科で学んでいることを同時に理解を深めつつ、(国語としては)表現と表現の繋がりを見つけては全体から意味づけながら読み進められる教材なのであり、そして、そうやって培った「読み方」は、さらに、高度な読書体験へつながる発展性を持っている。

 

を追加。結論(主張の本文)は変わらない。

 

「読めること」が「当然」とはかなり偏狭な意見だと思います。
人は表現に触れて「読めるようになる」はずだからです。

 

ただ、こうなると、教室で教える方が苦労する。
苦労しないと、頭ごなしに「読め(読めないお前がおかしい)」となるからだ。
これが権威主義なのであり、これが、教師と児童の権力関係なのである。


「授業」の戦後史と言えば、『山月記』だけれど(新「大正新教育」―実際は、規範的合理主義―と社会主義リアリズムの拮抗※1)、ここでは、兵十が「貧しい」ことが物語の推進力となっているから、この場合、いずれかの授業構成に拠るからというよりも、いずれの授業構成に依っても着目しやすいということはあると思う(この物語上は、「孤独」と「貧しさ」を結びつけて理解しやすい。「貧しい」って本当は、孤独でなくても貧しんだけれど)。
そうすると、教える先生としては、もうちょっと経験的に(つまり、客観的、科学的に、すなわち、テキスト外部の情報をフィードバックして※2)読み進めてみようか、「詩」という表現方法の理解を深めてゆこうか、となると思う。

※「リベラル」がどれほど浸透しているかというと、実際に社会批判から(社会へ目が拓かれるように)授業構成している熱心な先生のブログも拝見したことがあるが、そういうことではなく、

https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/13938/1/bungeikenkyu_112_39.pdf

もちろん、時代的に「身分差」はあるけれど、志賀直哉がプリレタリア文学に傾倒することはないと思う。そうではなく、違う身分の「邂逅」(のギリシア的道徳理解)だろうと思う。この理解の違いが、文中に表現されて在る主人公の心情の解釈の違いとなって現れる。「リベラル」的理解が当然とされている状況が見えるよね。

現場の先生は、文学や児童心理学、教育学、教育史に通じてても、別に政治学や政治史、政治思想史に詳しいワケではないので、「そういうものだ」くらいに思っているのかどうかは知りませんが(志賀直哉が、第一次世界大戦後の社会状況から、プロレタリア文学へ傾倒したなら、「国粋主義の首魁」と目されかねない―実際は当時に在って「一流」研究者の中でも頭ひとつもふたつもとびぬけていた―穂積八束は、もとより社会主義者だったということになりかねない。彼はフランス流の放任的な自由社会の弊害を懸念してそれを避けようとプロイセン流の一種の萌芽的な社会主義に向かっていたから。そもそも「大ドイツ」は、いろいろな源流を持っていた。でもそういうことではないよね。そんな単純な話じゃない。「単純な話」に収めるかどうかが、『ごんぎつね』でも試されていると思う

 

※2「外部に拓かれる」とき、「外部」が科学を指すのか、(直接)社会を指すのか、で分かれやすいし、また、科学を指すにしても、科学は「対象化」を経る作為であるから、その対象に(社会的事実を通して)社会を含みやすい。
『ごんぎつね』の詩性は、そもそも詩は多義的になりやすいがため、読解に多様性をこのような形でもたらしている。
これが「古い教育」にマッチしやすいのは、金子みすゞの「みんな違ってみんないい」が、もともとは素朴な感慨をつづった詩だったと思うが、本人みずから社会主義の運動に身を投じたり、この詩もその理解の下に置かれたりして、(「戦後」を含めて)時代背景もあって政治的に扱われやすいことを思い出すよね(与謝野晶子だってそうだしね。どうしても政治のテーブルに載せられてしまう、両サイドから。個人的には、中島敦与謝野晶子も、表現主義に過ぎなかったと思うし※3、『ごんぎつね』は『赤い鳥』、就中北原白秋の影響を受けて、自由な心情から―したがって、「孤独」と「貧しさ」なら、「孤独」を焦点の中心に、「貧しさ」をぼやけた周辺に置いて語り過ぎていないと―理解した方がいいような気がするなぁ、北原白秋が晩年は保守傾向を持ったのかどうかもあるけれど)。

※3『山月記』を「合理的個人」を想定して読み切る、、、、のは、相当(主体主義、心理主義に立つ)規範的な読み方だと思うけれど、それが(特にエリート教育乃至エリートな教育法として)説得的だった「戦後」(実質的には「戦前」のやり直し)があったんだよね(私は、表現主義、ある種の論理主義だと思う。単純に『文字禍』の延長に在る。物語形式としては、素朴な   破綻だと思う。単純)。

社会運動で社会は変わらなかったけれど、インターネットは本当に社会を変えちゃったなぁということでした。


こういうのは、「二重底」になっているから、素朴な対立は避けた方がいいんだよね。
右左だけじゃなく、前後もあって、ねじれた位置に対峙することもあるけれど、それに気付かず絡めとられないようにね