根底には、終戦後目指した権威的合理主義(文理)があって、それは論理と異なるものである

つまり、この人たちは、「リテラシーにも変遷がある」ことをそもそも知らないのだ。(意図せず)前半、後半に分けたけれど、後半はリテラシーの裏面史。

そう読んで読めないことはないひとつの可能性であると考えるか、そこに書いてあることは十分合理的に収れんされていることとして読むべきであると考えるかであって、

すなわち、後者が文理主義なのである。

今これに違和感を覚えている人は、憲法9条の呪いが解ける日も近い。
論理と文理は異なるのである。

アリストテレスによると、「論理」は「新しいことが生まれる」のである(書かれてないこともその関係をただすことにって、自ずと現れる。アリストテレスの哲学が、彼自身に間違いが多かったとはいえ、やがてデカルトニュートンらを通じて近代科学を生みだす源流となったのは、この「生まれる」とのアイデアからである。論理の中心はアマルガムな中間命題にあったのだ)。

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なるほど「誘導」問題。

『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969) 童心主義の諸問題

『ごんぎつね』の先に『銀の匙』があると考えると、

ここまで極端なことをする必要があるかわからないが、「規範的」な読み方ではなく、表現主義にたって「実感的」な読み方をさせるなら、2年生までは「身近な生活」だったところ3年生になると「むかしの生活」を社会で習い始めるのであるから、それを追体験するような格好となる。

昔の道具の調べ学習に役立つサイト集

『ごんぎつね』の最大の特徴は詩的な描写にあるのですから、それぞれの描写が実感を伴ってつながってゆくとき、それら表現のひとつひとつと、その繋がりを理解することが読解の目標となるはずです。それを支えるのが、小学生の発達段階では、(具体性を伴った)実感のはずです。

例えば、煮るにしても「ぐつぐつ」と「ぐずぐず」と「ぐらぐら」は違うわけですが、詩を理解するときに、これをどう実感するかは、単なる知識の教授に留まらないんじゃないかな。子どもたちが大好きなカレーを煮る時の音と「どう違うか?」は有効な具体性だろうと思います。

小3理科「音を出してしらべよう」指導アイデア |みんなの教育技術

つまり、詩的な表現に触れ、その文中の手がかりに着目して、社会や理科で学んでいることを同時に理解を深めつつ、(国語としては)表現と表現の繋がりを見つけては全体から意味づけながら読み進められる教材なのであり、そして、そうやって培った「読み方」は、さらに、高度な読書体験へつながる発展性を持っている。

「読めること」が「当然」とはかなり偏狭な意見だと思います。
人は表現に触れて「読めるようになる」はずだからです。

 

鈴木 三重吉 1882年(明治15年09月29日 - 1936年(昭和11年06月27日

中 勘助   1885年(明治18年05月22日 - 1965年(昭和40年)05月03日

北原 白秋  1885年(明治18年01月25日 - 1942年(昭和17年)11月02日

新美 南吉  1913年(大正02年)07月30日 - 1943年(昭和18年03月22日

新見南吉は、『銀の匙』の東京朝日新聞への掲載が終了した次の月に生まれ、18で『ごん狐』を書き、その後、東京外語大学へ入学した。

【文豪と児童】騒ぐ子供は箪笥にしまっておけ、といったほど子供嫌いの鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したわけ

童謡は「音楽文化」だったのか ―1920 年代におけるメディアの変容と消費社会― 周東 美材(大東文化大学)

大正自由教育運動 - Wikipedia

鈴木三重吉北原白秋の諍い。酒癖の悪さか方向性か。