なるほど。

 


★★★☆☆ 結局、純文学とは何か
2022年6月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入

純文学とは何か、本書を読んでも、コレガワカラナイ。

ざんねんなことに、最後まで「純文学は~である」とわかりやすい結論が示されていないのだ。

なので、私などには、作者の言いたいことを正しく読み取れているか甚だ怪しいのだが、
どうやら、作者は私小説こそが純文学の本道という考えのように思えた。
これは久米正雄の説を取っているらしい。なるほど、と思わないでもないが、すっきりとはしない。もやもやは残る。というか、余計もやもやする。

お答えしましょう。

私小説が純文学なのではなく、私小説を方法論として描かれる内容が(おのずと)純文学になる、という主張です。

私は法学に興味があるので、アメリカで起きた中絶論争を、〈私〉の不可侵性(リベラル)と〈存在〉の普遍性(保守)の価値の対立とみなすわけです。

このとき、もうひとつ〈権力〉を考えると、文字(記述)の権力性、科学の権力性(科学的専制)が別に主張されるわけです。

これを軸に考えます。
小谷野は私小説を「書かれるほかないもの」としていて、そのとき、その内容に心理描写があったとしても夏目漱石心理主義とは趣を異にします。
夏目漱石心理主義は、科学を目指したからです。そこに、〈私〉への侵害を感じ取るわけです。

これはオイラーに対するデカルトの立場に似ます。
微分の嚆矢となったデカルトの曲線論とは、ある方法論(万能法線)に則っとると、内在する論理性から自ずと描かれるもので、その性質を明らかにして解明するものではありません(非関数的)。
解析学を創始したオイラーの関数論は科学に不可欠となりました。
そういうことではないのです。

小谷野にとって純文学とは「書かれるほかないもの」であり、性質を明らかにして予期されるものではありません。

  • 私小説を方法論として(自ずと)書かれるもの(方法的帰納主義)
  • 性質を解明して予期されるものではない(非科学性)

こうして〈私〉の不可侵性が保たれるものでしょう(独白に基づく演繹性)。
それが小谷野の謂う純文学です。
ですから、私小説を定義づけることなく、実際にもっぱら例示して見せるわけです。
これは法学的には、(ハーバード大学の「科学的方法論」であるソクラテス・メソッドが席巻する前の)イェール大学の古典主義で、事例をひたすら参照します。「古典」と認められる以上、そこには何かしらの価値が胚胎しており、参照され続けることで自ずと明らかになり、「古典」をあらかじめ予期することは矛盾に過ぎないと考える立場です。

私たちは、定義と方法を勘違いしやすいのです。
例えば、「権利」に定義はありません。外形があるのみです。しかし、それが何であるかが、私たちにはおのずとわかるのです。