だから、「マルクス主義」じゃなく、ギリガン主義でしょって、超高齢社会の実際上の問題を目の前に据えて必要に迫られているわけ。

単に「介護」ってことじゃなく、前期近代主義に棹差すオカルト的な主体主義(エゴ主義)だと、老後に困るんだな。リンチ(老人、特に男性高齢者への、第二の「成人儀式」)をしないといけなくなる。

だったら、最初っから、そうじゃない方向でやっとくしかないなって、そういうこと。
要は、「現役」というソルジャー中心主義だと、まぁ、困るなってことで。

そうすると、「英雄」(生きる「英霊」)として奉るか、社会的敗者として排除するかしかなくなるんだよな。それは無理だな。


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昨日までは注文(申し込み)できたのに(受注されて、買えるとは限らない。)、今日はできない。

https://jp.mercari.com/search?keyword=%E6%96%87%E5%AD%B8%E7%95%8C%282022%E5%B9%B46%E6%9C%88%E5%8F%B7%29

メルカリも完売だが、1月前の699円から1日前の1000円へ値上がりしていた。

別にどっちでも構わないが、『ギフテッド』の冒頭から少し読めたはずが、読めなくなっている。

文字をぎゅうぎゅうに詰め込んでいるのが印象的な、理知的な文体で、もう一度読んでみたかった。ただで。

しょうがないから記憶をたどると、『繁華街とコリアンタウンとを隔てた』で始まっていたんじゃなかったかと思うが、違うかもしれない。

それが『コンビニ人間』とは違った人格の持ち主が、それぞれの独立した機会(「帰宅」と「防犯」)を操作した調和音(いずれも或るドアから発せられる音だが、それぞれに―2つのドアにー分解したのが、著者の着眼点だ。)で生活を規範化してゆく。時報の代わりとも言えるが、それを所謂「身体化(合理的身体)」している。それが狂うと世界が「狂う」らしい。
それが「繁華街」という、或るdistrictで起こる「事態」で、しかし、ここからは、本来『コリアンタウン』で起こっているはずのdiasporaの話へとなってゆくらしい。

コリア・タウン - Wikipedia

だから、ある種の反村上春樹小説だ。
だから、『ギフテッド』が芥川賞を取ると興味深い。
芥川賞村上春樹との因縁だ。

村上春樹が「難しいことを簡単に」と言ったのかどうか、「難しいこと」には「難しい」だけの理由がある。ただ、そこに政治的な文章ということはある。政治運動を目的とするのではなく、自然と出てくる政治的な振る舞いのことで、「ドイツ哲学が難しい」ということである。英語にすると、極めてシンプルになって、拍子抜けする「あれ」である。
だから、実際には、村上春樹も政治的な文章を書いているのに過ぎないのであって、実のところ、社会主義リアリズムの影響が大きいと思う。
村上春樹を「気持ちよく」感じる人が居るのと同時に、大いに批判対象となるのも、当たり前なんだよね。
村上春樹ら上の世代では、「みんな違ってみんないい」とやって変わり者を社会的に「包摂」すると言いながらエゴ剥き出しだったわけで、それを今は、科学的な対象として「合理的配慮」を求めるのに変わったということだ。要は、前の世代では、対象化(科学化)を主体化(オカルト化)でせき止めていたわけだが、そんなごまかし(罵詈雑言)も社会の高度化で説得力がなくなったわけだ。「差別」も「区別」も同じ差別だ、なんて政治的標語に、誰が耳を傾けるというのか。違うものは違う。
だったら、やっぱり「みんな違ってみんないい」じゃないか、といのは、分岐のメカニズムを理解していないのであって、それをごっちゃにすると、「インクルージブ教育」の名の下に見世物化が行われるのである。なぜなら、「違う」ことが「役に立つ」からである(それが「主体的」に行われる※)。それがエゴ(の心理学)の導線である。

※ここで謂っているのは、この教育は「一概的に」判断できないということであって、「一概的」でないことが「分岐的」なのである。主体間の判断が必要となる。そのとき、主体間の判断が「違う」と客観視できるベースが必要となる。そこに必然的に何かしらの(主体化に対抗する)対象化の機序を設けなければならないのだ。主体間の帰着先が主体であってはならないのだ(対象化されるが「主体」は保存される二重化の機序である。村上春樹の方法論は、明確に、これに反していると思う。だから、認識能力が未熟な、、、童話として、、、、、、まことに素晴らしい。大人が童話を楽しんで悪いわけではない。しかし、童話だ。最近は成熟した文章を書こうとしている。老人の繰り言だ。老人の繰り言を若者が楽しんで悪いワケではない。しかし、老司の繰り言だ。楽しいなぁと思う気持ちを大切にするのは自由だ)。

村上春樹の比喩は詩として美しい。しかし、それは詩である。社会を説明する文章とはなり得ない。固有の世界観を表現する芸術家の言葉である。固有の人格からしか出てこない。彼がユング(という二流のオカルト)を好きなのは、偶然ではない。

その反対にあって、「定義」から始めて理知的に説明してゆこうという文体のように、冒頭文からは、感じた。なにしろ、それほど読み進めていないので、その程度の推測である。