デカルトの非時間論               「線」≠「軌跡」

この洞察は、カントの『純粋理性批判』における伝統的な形而上学批判を思い起こさせる。事実、本書は、それまでの哲学の構図を大きく塗り替えた。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を解読する | Philosophy Guides

カントを『思い起こさせる』からこそ、なんて言うんだろう、不案内に感じる。

カントが『批判』を「作った」のであって、「完全な演繹の系」を想定したのはカントなのは、哲学の一般的な理解じゃないかね。すなわち、カントが言うには、数学は経験によらない純粋な演繹の系で、ア・プリオリなものだから(それをフォン・ノイマンは実現しようと失敗して、一部経験を導入せざるを得なかったのであって)。

カント(ドイツ人)はやはりデカルト(フランス人)であって、なぜデカルトかと言うと、

ここでのポイントは、事態は相互に独立しているということ、また、事態は「対象」同士の結びつきによって成立するということだ。

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ここでのポイントは、これがデカルトの謂った「実在」そのものだから。
ただし、デカルトは、神の体系で「すべて」を構成するから、アイデアも存在も全部同じに扱う。神という「一者」を想定するから「当たり前」な発想で、デカルトが危険だったのは、被造物としての神の表現をもたらすのが「時間」ではなく「媒介」としたからそれが異教的(ギリシア的)に過ぎた―それは「胚胎」すれども「孵化」させてはいけない禁忌だった。三位一体論は、無から有を生み出すことを「発見」したキリスト教の唯一無二性に根差して、『難しい』ものだった―に過ぎない。

デカルトの用語は「軌跡」と「線」を分けるのだが、この「軌跡」とは、一般的な語意では、時間で展開されるものだから、混乱しやすい。おそらくそういうことではなく、それは具体化のことであって、アンセルムスの【可能性】と同じことを企図して、デカルトにおいて、アイデアも存在も同様に、、、「一者」からもたらされる意味がこれで、「媒介」を通して「実在」として具体化されると謂ったのだが、ここでアンセルムスを引きながら実は「批判」して言葉を「媒介」と観念しているんだ。だから、デカルトにとっては、言葉も「軌跡」も同じなんだよ。そして(ここで重要なのは「線」と「軌跡」は同じではない。カント的に言えば、線はア・プリオリだ。それをライプニッツは「批判」した

極小単位が必要であると。要は、どこまでが観念の話で、どこまでが経験の話かの「線引き」で揉めたわけだが、そもそも複層的な議論なので、出発点を明確にしないと境界が曖昧になりやすい欠点がある。ライプニッツは、「連続する」という、観念上の「経験」を述べているからだ。それが実際もそうであるなら、それが「写す」ということに他ならない。それがドイツ人なのだフランス人ではない

 

スコラ哲学は、敢えて、、、、経験と非経験を意図的に―すなわち、認識上―いっしょくたにしてきたと言える。なぜそれが〈可能〉だったかというと、「媒介」を否定してきたから。デカルトはそれを「思い出させた」んだよ
思い出させた以上、それにドイツ人としてケリ、、をつけたのが、カントであって、ドイツ人はずっとそんなことを言ってきているわけだ。ドイツ人独特の矜持であるようだ。
イギリス人は、たまにホッブスみたいな人が出て来るが、好まれるのは、穏当なロックの方である(ホッブスは、いかにもイギリス人の態度で「形式的に振れる」程度で、過小評価されているように感じる)。
ドイツ人は正々堂々と偉ぶる。
大陸人の「タフネス」の特徴かもしれないが、当然に、他国人ことを見下す。
だから、たまにそれを覆す人が居ると、まことに「あり得ない」道徳の持ち主なのであるようだ。

スコラ哲学にとって、ギリシャ哲学(異教)をどう「消化」乃至「昇華」するかは、最大の関心事であり続けただろう。だけれども、最初の公会議以降、キリスト教を教会の判断に基づき擁護するもので在り続けなければならなかっただけで、デカルトはそれを巻き戻した。異教的とはすなわち異端的(公会議で否定された見解)であることだ。

 

 

野矢に関して注意しなけれbならないのは、野矢は少なくとも『論理』で、ツェノンのパラドックスを説明しているが、伝統的な理解に沿って、第一問題(無限分割)を第二問題(無限遠点)とを区別していない。これはツェノンにおいては当たり前で、ユークリッド幾何学では、それを(平行線―第5公準として)区別できないからだ(デカルトだって「代数的(幾何学)」であって超越数を認めていない。)、しかし現代のわれわれは古代ギリシア人ではない。
現代、翻って、それを数学的に説明するには、あまりに不十分なのだ。
つまり、ギリシアの哲学こそ「一者」思想の原型であって、その区別のつかなさ、、、、、、、こそがその「一者、、の認識、、、を説明しているのであり、繰り返されたに過ぎないということをここで謂っている。
なのに、どうして、ヴィトゲンシュタインを説明できるというのか?

 

カントを理解するにはデカルトを、デカルトを理解するには、アウグスティヌスとアンセルムスを語彙の上で引かなければならない。そして、カントはフィヒテによって、その意義が強調される。
同じように、ヴトゲンシュタイン(ドイツ人)を理解するには、イギリス人を引いて用を足し、同じドイツ人でその意義が強調される。

すなわち、ラッセルで在り、ゲーデルである。ドイツ人の大言壮語には歴史があるのだ。


むしろ興味深いのはイギリスであって、イギリスは、「後進国」であることが珍しくない、珍しい国なのだ。そのイギリス人がドイツ人を手放しで褒めるなんて、いかにも胡散臭いハナシで※、そりゃ裏からの「自画自賛」を勘ぐるのやむなしである。

※ただし、その昔、菊池大麓を助けた友情もあるので、一概には言えない。でもだいたい、「イギリス人が」に限らず、せせこましい感情も社会のどこかに胚胎しているものである。

数学も

受賞時の国籍が基準。二重国籍はそれぞれの国に1個。国旗は現在のもの。ただし、消滅した国の国旗は最後の受賞者の受賞時のもの。(2018年8月現在)

受賞数
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 13
フランスの旗 フランス 13
ロシアの旗 ロシア
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦を含む)
9
イギリスの旗 イギリス 8
日本の旗 日本 3
ベルギーの旗 ベルギー
ドイツの旗 ドイツ
イタリアの旗 イタリア
イランの旗 イラン
2
オーストラリアの旗 オーストラリア
 オーストリア
ブラジルの旗 ブラジル
カナダの旗 カナダ
 フィンランド
イスラエルの旗 イスラエル
 ノルウェー
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
 スウェーデン
 ウクライナ
 ベトナム
1

フィールズ賞 - Wikipedia

こういう世界であって、ただし、アメリカは多民族国家で、中国系、インド系も含まれているし、歴史的に有名なドイツ人―オーストリアも含む大ドイツ、それ以外も含まない小ドイツにしても―少ないように感じて、グロタンディークがどっちなのだろうと思わないではないが、「数学」と言えば、おおざっぱに真ん中あたりの大陸ヨーロッパ(西・中央・南という区分では難しい。)からロシア、アメリカへ「本場」が移っていった印象がある。フランスはいまだによく健闘している方ではなかろうか。イギリスは、思い出したように、時代を代表する大数学者が現れる印象である。