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デカルトがとかく誤解されるのは、直近の問題として、パスカルの「人間は考える葦である」との比較ができないからであり、それがプラトン主義(流出論)に根差していることが、ギリシャソクラテスプラトンアリストテレスストア派の知の継承の中で位置づけられないからだろうと思う。

デカルト人文主義者としてカトリックを排除したのではなく、あくまでキリスト者として、(近代的な自由主義者というよりむしろ)異端な「自由意志論者」だったのであって、この観点から、パスカルが何に怒っていたのかを、エラスムスの自由意志論とルターの奴隷意志論の論争への結実に見ることができる。パスカルは原理論者だったとも言える(のだが、パスカルな偉大な功績により、適切な批判がなされていないのではないかと思う―一部の歴史学者が「ルネサンス宗教改革から」と思潮への同一視を仄めかす程度で。なんのことはない、この「ルネサンス」とはパスカルのことだろう)。

これが、なぜ、明言されないかというと、もとより、ごちゃごちゃになっているからであるのは、ソクラテスの弁明がプラトンに書かれていることからも、わかる。ソクラテスプラトンによって「ソクラテス」となり、アンセルムスはデカルトによって「アンセルムス」となり、デカルトはカントによって「デカルト」となった。

何が言いたいか。
ラブレーである。

フィッツジェラルドの前に、レオン・ワルラスが居て、レオン・ワルラスの前にヴィクトル・ユーゴーが居て、ヴィクトル・ユーゴーの前にオノレ・ド・バルザックが居て、オノレ・ド・バルザックの前にフランソワ・ラブレーが居たようだ。

フランソワ・ラブレーの後にルネ・デカルトが居て、ルネ・デカルトの後にジャン=ジャック・ルソーが居るのである。

ただ、バルザックには二人居て、ゲズト・ド・バルザックが最初のフランス語哲学者ルネ・デカルトに与えた影響は大きい。
デカルトは、直観主義に立って存在を論じたのではなく、明証主義に立って存在論を論じたのであるから、行動主義であることを除けば、ハイデガーにアイデアを与えたともいえるが、これが変な形でロシアへ伝播したらしい。ロシアの19世紀オカルト主義の源流となったようだ。
存在論的論証の始まりはアンセルムスと言われるが誤解で、アンセルムスはカトリックの定めた秘儀の作法に従って直観主義的にキリストを擁護しただけであり、それが「論」になったのはデカルトギリシャ弁証法に根差して論じてからである(「自己原因論」と呼ばれるその実「実在論」であるが、これはギリシャ的な媒介論であってライプニッツが法学出身者としての面目を施して後日弁護した中核的な命題可能性と生起可能性の同一視であるが、アンセルムスの擁護した素朴な比較を、ストア派の研究した「矛盾」への考察から、再帰的に論じることで無限を獲得した最初であるだろう。デカルト実在論の一表現として示した曲線論が微分学の嚆矢である理由である。存在論的論証が。数学者はゲーデルは誤解されやすいというのだが、それこそ半分は誤解で、  ゲーデルは論理学者として極めて保守的だったのが、スマリヤンによってより鮮明となっている。ゲーデルは神の存在証明を「良い加減」に示したが、その動機は、おそらくデカルトと等しい。デカルトを曲線論の技術からしか評価できなければ、ゲーデルもまた、不可能性定理からしか評価できないが、両者の中では、神の存在証明は違和感なく不可避であっただろう。希少な友人だったアインシュタインゲーデルの政治的保守性を知って「狂った」と言ったが、ゲーデルは入国時に合衆国憲法に潜むファシズムを指摘したころから「狂って」いたのであるから、そのゲーデルが神の存在証明をするのは「狂って」おらず、むしろ回転宇宙を数学的に示したことの方がゲーデルとしては戯れであって、所詮は論理の練習問題に過ぎない。最後の「スコラ哲学者」である)。それが「証明」となったのは、カントの批判からである。
※ちなみに、岡潔は最後の「和算家」であるので、真似をしても仕方がない。


デカルトもそうであるが、ラブレーを見ていても、フランス語が「未熟」であった云々が出て来る。

#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ

#2622. 15世紀にイングランド人がフランス語を学んだ理由

#1407. 初期近代英語期の3つの問題

#2611. 17世紀中に書き言葉で英語が躍進し,ラテン語が衰退していった理由

100年ごとの考察である。フランス語もこんな感じだったのか。

ノルマン・コンクエスト - Wikipedia

フランス人に支配された話であるが、フランス王に支配された話ではないため、ややこしい。

それはよいとして、ラブレーである。
ラブレーはコメディ作家であったようだ。その方法が諷刺であったから、大変だ。
「善き田舎者であることが幸せ」と言わしめるくらいに諷刺は恐れられ、嫌われた。
シャルリー・エブドが云々と馬鹿げた擁護があったが、それは自分は高みの見物を決め込んでいるからで、本来は、庶民を恐れさせたのだ。なにも権力者に限った話ではない。要は、今でいう、  であって、諷刺とセクハラは紙一重である。「文化」とはそういうものだ。特に区別しない。諷刺はやっぱり下種なのである。それでもなお、擁護できるかは、その社会の文化依存度に拠る。ただそれだけのことである。みんな都合よく使い分けているだけである。それが文化だからだ。
そんな戯言にいちいち騙される必要がない。

そのうえで諷刺を擁護してみると、ロジックに行き着く。
例えば、シェークスピアである。小谷野先生が『なぜ鶏は道を渡ったんだ?』について説明されていて、なるほど、と思う。

イギリスの古典的な冗談らしいが、目的と結果と動機が混同されやすいのは、ラマルク的進化論とダーウィン的進化論の違いの一般的な誤解からもうかがえる。

マクベス』で魔女が宣ったのはこの手の冗談なのだ※1。そういった意味では、『まことちゃん』がホラーをギャグに置き換えたのは理由があった。そこに深淵な原因はない。機械的な言語作用だけがある。
※1「pならば、q」式に、道を越えるならば向こう岸に付くのも、戦争になるまでは「負け」がないのも、語義上当たり前のことを言っただけで、これが境界を越えれば戦争になることが巧みに粉飾されているところにレトリックがある※2。ロジックとレトリックが紙一重だったのだ。シジュウカラの「文法」も命題論理の順序構造を持っていて(というよりも、イメージの順序構造を持った文法で、言語論の教科書を見ても、今では主流派でないにせよ、そのような文法は説明されている。)、分節可能なようだ。順序を反対にすると意味をなさない。シジュウカラは少なくとも蛇の「実在性」を理解している。「藪から棒」と聞くのと、「藪からスティック」と云うのは、若干「文法度合い」が異なる。前者は文脈が問題となるのだ。諷刺はそれが後者であることを揶揄うのであった。

※2「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」と言ったときに、そこに語義上のクエスチョンなどない。「死ぬ一択」である。しかし、善き死でなければならない。急かされても甚だ困るのであった。これが理解できないと、その後のハムレットの癇癪がよくわからない。「善き死」を理解してくれないと嫌と、駄々をこねているのだ。とばっちりで、オフィーリアが死んでしまった。とんだDV野郎である。そう考えると、紫式部が「生霊」を生んだのは、「世界最初の小説」である以上に、画期的でなかったか。なにしろ、生きながらにすでに、悩んで出てくるのである。「祟る」にもいろいろある。

ともあれ、これが、

 なぜ鶏が道を渡ったか

だと案外、すんなり読める。〈が〉が可能を暗示し、{鶏にできること} が 述語の〈渡る〉を修飾するために限定的に対象化されるからだ。「限定的」とは余計なことを考えないことだ。反対に謂うと、余計なことを言い募るのは、上手く制限がかかっていないのである。ここに「未熟」を考察する意義が生まれる。

ゲーデルが証明する前に、ヒルベルトはスコラ哲学に対して呵々大笑した。
知らなければ黙っているほかない。
実際は、ヒルベルトにも傲慢さが隠しきれなかっただけであるが、そんなことはどうでもよくて、しかし、本当に彼らが黙っていたのかは疑問である。
嫌われ、おそれられるほど、喧しい一は居た。

ラブレーの諷刺は、パラドックスが理解される以前の、パラドキシカルに作用する言語を持っていたのではなかったかと思う。ラブレーもまたギリシャ的であって、デカルトの前にラブレーが居たのは、フランス語が「未熟」だった事実と合わせて、重要な事実である。