つまり、カトリックプロテスタントの違いというのは、一般の人にとっては言われているほど厳密ではなかったということだと、ブドン教授は指摘する。当時の村の状況からすると、妻帯している(そしてその分、それほど好色ではないだろうと思われた)牧師というのは、かなり好ましかったのだろう。

城の床板にこっそり、大工が書いた19世紀フランス農村の赤裸々な秘密 - BBCニュース

私たちはフランスを誤解していたのではないだろうか。

 

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デカルトの物心二元論についてわかりやすく説明してください。 - 物体(物質)... - Yahoo!知恵袋

心身二元論」という問いがそもそも成立しているのかからして、もう怪しい。
きわめて近代的な問いなのだ。

デカルトの業績は「曲線論」に尽きると言ってもそれほど過言ではなく(【数学的デカルト】)、そうであるために【人文学的デカルト】を要請したが、それは主に【論理学的デカルト】に従事することであって、要は、ルネサンスによってスコラ哲学を批判した、すなわち、ギリシャ哲学を統合することによって、言語の媒介性を擁護した神の擁護論を完成し、その面から言語の媒介性を否定したスコラ哲学に挑戦するルネサンスを興したが、「最初の近代人」であるというよりは「最後の近世人」であって、なぜかと言えば、スコラ哲学が大いに進展した中世に対峙してポスト中世たる近世を終わらせたからである。

しかし、いまだ近代に至らず、プリ近代といった趣であるのは、「我思うゆえに我あり」が誤解で、あれこそが、ギリシャ哲学の統合なのだが、つまりは論理学に過ぎないのだが、実在論の立場を鮮明にしたのに過ぎない。

その実在論はカントの言う霊的な世界の実在論そのもので、しかしカントと異なるのは、それが霊的な世界に限らなかっただけである。それが統合的なのは、ソクラテスの対峙性とアリストテレスの鏡像性とプラトンイデア性しかし新プラトンの全体(ひとつのもの)性というストア派の、名辞である言語が媒介であることを通じて明らかになる実在性を説明したのであるが、こんなことを言っていても始まらないのであって、曲線論を見れば、一目瞭然である。

要は、法線で曲線が説明できるといったのであり、この交線とは、実は円の直径に等しいのであって、曲線の法線と内接する円の法線が等しくなることで、普遍的な法線が求められるといったらしいが、これは集合論が成立する以前に概念論で説明されるのである。概念のややこしさはフレーゲの陥穽を見ると理解できる。フレーゲのような一から考察できた稀有な大数学者でも、概念を払拭することができなかった。
※円を内接する意義はおそらく👇である。したがって、デカルトは、その幾何的目的に沿わない曲線(の作図)を認めなかった。またこれを通して理解すると、デカルトエーテル論への接近も説明できる。だから、ニュートンは、「真空」を認めて、解析的に(超越的に)批判する必要があった。

この考え方に基いて、天体運動は真空の生じない天球の回転運動でなくてはならず、楕円運動や直線運動ではありえないと論じられた。

真空 - Wikipedia

それくらい取り扱いが困難なのが〈概念〉であって、それはそのまま〈心〉に通じる。
それだけのことである。
要は、極めて言語的な問題なのだが、言語的であるがゆえに、直観的な考えと対立し(仏教が識字学であるがゆえにーおそらくインド哲学にあった概念論が、中国語を経ることでより識字が意識されるようになったのではないかと思うのだがーそれを解脱する「禅」が生まれたようなことである。)、そのような対立が付随的(逃れられない原理)なのである(だから、パラドックスを生む)。それがいわゆる「心身二元論」であって、問題が、複層(複文)的なのだ。

それが後期近代に至って心理学的な説明が加えられ、より複雑になったのである。

ソクラテスー新ソクラテスプラトン)ー新プラトンストア派ースコラ哲学)ールネサンスデカルト)ー新デカルト(ルソーーカント)ー新カント(フッサール)ーフロイト

と言った流れであるが、「理解」とは常に相続的であるがゆえに錯綜しているのであった。大切なのは、

  • 【数学的デカルト】は、「ルネサンス」というギリシャ哲学諸派の統合に拠って「スコラ哲学批判」というスコラ哲学との結合を成し遂げた【論理学的デカルト】の達成で、或る程度成果を出したが、やがて大いに批判され、一般的には見る影もなくなった
  • 【人文学的デカルト】は、当初から(デカルト自身においてさえ)説明が困難だったが、カントが二律背反を用いてその世界を弁別することで保存することに成功した(根源的な困難の原因を分離した。カントの最大の仕事はむしろ、この「分離術」にあると言っても過言ではない※。後のことは、ドイツ人らしく流麗であるが、内容自体は極めて古典的である)
    ※これもカントの独創というよりは、独創的ではあるが、スマリヤンを準備する単純な「二段階論法」ではないかと思う。スマリヤンはその始まりをゲーデルを介してアンセルムス(スコラ哲学の創始)に見る。ゲーデルはもとよりきわめて保守的なのだ。
  • もとより、デカルトの仕事の中心は、曲線論である

長くなったが、こういうことである。

何が言いたいか。
バルザックである。

https://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/europe/pdf/seur-04-02.pdf

ルソーの影響から(それを否定して)心理学へ飛んでいる、この伝統的な、、、、説明である。
きわめて「普遍」性に根差した議論であるが(要は、それぞれの時代背景をすっ飛ばしている。)、なぜ、いっしょくたにできるのか、ということである。
そもそも心身二元論を論じる「心身二元論」がかなり無理をしているのではないかと思う。そんな問いは、本質的には、ない。現代にいたっては、脳科学も発達したので、素直にただの歴史考察としてみればよいのである。


もとよりドイツ人には始終騙されている。
アメリカ人を警戒しやすいのは、単に、アメリカ人がわかりやすいからだと思う。