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デカルトの成し遂げたことは、幾何と代数を結び付け、〈世界〉を、そのうちに在る〈概念〉が交錯して構成される矛盾が〈実在〉として満たされ、それが〈機械〉的に具象化する表現として〈論理〉的に描いたことだ。
〈世界〉を支配するスコラ哲学に、理念的に貶めることなく穏当に〈擁護〉し、しかし復古的な方法論を用いて激しく挑戦したことは、多くの追随者を勇気づけたが、彼の信じた、世界を説明する因果関係は必ずしも妥当ではなかった。
しかし、今や〈世界〉は〈空間〉に、〈概念〉は〈対象〉に、〈実在〉は〈作用素(演算子)〉に、〈機械〉は〈関数〉に、〈名辞/命題論理〉は〈述語論理〉に、〈擁護〉は〈証明〉にとってかわられた。
彼が、数学者なのか、人文学者なのか、評価が難しいところであるのか、いまだにカントが語られることはあっても、デカルトが語られることはないが、計算が得意な天才が数多いる数学者の中にあって、極限の理論が精緻化される以前において、(幾何学と代数学を、ギリシャの幾何学と論理学の結びつきから、結びつけることで)極めて理念的な世界を提示できたのは、特筆に値すると思う。
これが、実は、めちゃくちゃ面白かったんだけれど。
或る意味で、「答え合わせ」ができた。意外にかすっているところと、やっぱり、不明を恥じる(べき)ところ※とが、あった。
※「族」に関する理解と、ニュートンのデカルト批判にあった(代数関数に限らない)超越関数が物理現象の理解に必須であること。ただし、デカルトは、「」(負の数)と「想像的な数」(虚数)を認め、また、n次の方程式にはn個の解が必用であることを主張していた(が、素朴な位相的な理解で、実態から切り離して、数を情報として独立して扱うのは、苦手だったようである)。こういう理解があると、オイラーが関数論で何を標的にしていたかが、わかる。デカルト(の幾何的ゆえに目的的世界観)である。反対に謂うと、デカルトの数学は、オイラーまでは支配的だったのである。
「デカルト」で牽引に載っているのは、15か所。
頁 | 引用文 | 内容 |
---|---|---|
0088 | 2-2 | 2-3 |
0108 | 3-2 | 3-3 |
0128 | 4-2 | 4-3 |
0145 | 5-2 | 5-3 |
0407 | 6-2 | 6-3 |
0575 | 7-2 | 7-3 |
0822 | 8-2 | 8-3 |
0823 | 9-2 | 9-3 |
0825 | 10-2 | 10-3 |
0827 | 11-2 | 11-3 |
0837 | 12-2 | 12-3 |
0842 | 13-2 | 13-3 |
1038 | 14-2 | 14-3 |
1067 | 15-2 | 15-3 |
0685 | デカルト積 |
そうか、デカルトが、多大な貢献があったにも関わらず、一般的には『方法序説』の奇抜なアイデアしか取り上げられないのは、こういう理由だな。
一方で、カントは、取り上げられすぎな感が否めない。
反対に謂うと、カントは、数学でほとんど貢献しなかったのが、よかったらしい。
【数学的デカルト】ーウォリスーニュートンーオイラー
【人文学的デカルト】ールソーカントーハイデッガー
【論理学的デカルト】ーヴィトゲンシュタイン
ここでようやく、ヴィトゲンシュタインが出てくるのである。フレーゲーラッセルの論理主義の正統でありながら、不思議な感じがするのは(ある意味ゲーデルと同じように、保守的な思想によるものでーしかし、これはリベラルの偏見に過ぎず、論理学の成立から言って、保守的なのが正統である)デカルトの神学的系譜にも連なるからだ。
こうして考えると、デカルト自身が、ギリシア的な意味で、大きな矛盾だったようなもので、彼の世界構想は多くの影響を与えつつ方々で挫折して今では一般に顧みられることはないが(なぜか代わりに、カントが、なぜか数学者からもーノイマンのような時代を画す大数学者からも、数学についてほぼ何も貢献していないにも関わらずー、大きな期待が寄せられる有様である。)、彼自身がそれを体現したと言える。デカルトの真理は、デカルト自身について言えば、間違っていなかった。
そして、ギリシアの幾何学のように、彼の内容を満たす〈実在〉は、背理的に(極限まで)取りつくされてしまったのだった。
ヴィトゲンシュタインの、特に後期の「わけのわからなさ」「取り付く島のなさ」は、まさに、ルソーの一般意志の「わけのわからなさ」「取り付く島のなさ」と等しく、デカルトの〈実在〉に由来するのだ。それは神学的秩序で在り、神学的秩序であるがゆえに、ニュートンが喝破したように、言わずもがな、が背後に隠されるのだった。
結局、デカルトには何ができなかったか。
簡単である。
積分である(積分ができなかった※)。デカルトは微分の発見に多大な恩恵を施したが、彼は神学的秩序に拠っていたので、そもそも積分という概念を必要としなかった。なぜなら、世界はおのずと(機械的に)具体的に現れるからである。彼は神を擁護しただけであって、(関数を駆使して)証明したのではなく、〈幾何的〉〈代数的〉〈具体的〉であることに縛られ、それ以上のことは、ギリシア人と同じように、示唆したにとどまった。
※ここらへんの機微は、「組み合わせ的確率論」から(測度論を整備した)「公理的確率論」への移行と比較すると興味深いかもしれない。
ここらへんを端的に理解するには、我らの足立先生が、一番わかりやすい。
デカルト,フェルマー,パスカルの 数学(思想)を比較する 足立恒雄(早稲田大学)
結論を言えば、デカルトの事績を要約した5項目のうち、その4
デカルトが解析幾何を創始したというのは物事を簡単に捉えすぎていて,事実とは言えない. デカルトは,解析幾何の基本である,座標軸の設定も,座標変換も,与えられた 2 変数の方程式がどういう曲線を表すかも,一切扱っていない.x, y の任意に与えられた 2 次方程式が 円錐曲線を表わすことは,一部はフェルマーによって示され,最終的にはヤン・デ・ヴィッ ト(1623―1672)によって証明された(カッツ『数学の歴史』,第 11 章第 1 節参照).われ われは先に固定された座標系を考えるけれども,当時は図形が先にあり,それに応じて横軸 が採用される.固定された縦軸が登場するのはオイラーを待たねばならない.
要は、デカルトは関数に到達していなかったということを言っている。
なぜかと言えば、単純で、デカルトは〈数〉を扱っていなかったからである。
デカルトは表面上は〈量〉を扱って、作図していたのであるが、そうであるよりむしろ、〈実在〉と謂う、「それ自身が存在でない」「それ自身が概念でない」「それ自身が真理でない」という直ちによくわからないが、存在に付随して存在的な※、概念を稠密に満たして概念性の、真理に随伴(媒介)して真理傾向を持つ、矛盾(翻有)という、有限な手続きで制限される表徴の展開によって機械的に、具体的に表現される。
※これが見た目の〈量〉となるようだ。
すなわち、デカルトは関数ではなくいわば「関概念」を志向したのであった。xという概念とyという概念が交錯したときに生ずる法線という普遍的な〈実在〉を以て、曲線がおのずと現れるー実際には作図できる、と説明したのである(それが接線でない拘りが、デカルトの思想を表している※1。これが『方法序説』を書いた理由であって、真理を分岐する矛盾でなければ秩序が保たれないと信じたのだ。秩序がなければ表現がない。その意味で、デカルトが為したのは「証明」ではなく、「擁護」である。したがって、デカルトによって積分は誕生しない)。
※1これが、ソクラテスの科学的方法論を受け継いだ、画期的な「翻有」性で、ひっくりかえらなくてな駄目なのだ※2。デカルトの本質は、まずはギリシャ哲学の統合(ソクラテス:プラトン×アリストテレス×ストア派)を成し遂げたうえで、究極の目標であるスコラ哲学(究極も目的は神の擁護)に帰着させた点にあるので、哲学に興味がないと、不合理なことを言っている不完全な人にしか思えなくなる。要は、ルネサンスなのであった。
※2ニュートンとの比較で謂うと、(代数関数と超越関数という数の拡張以外では)、デカルトの「ひっくり返る」科学性は、「対照的な」「突合的な」立法(約定)性に変わったと言え、その点で債務論から始めたライプニッツとニュートンは近いが、ニュートンはデカルトの幾何学の正統でもあって、画期的業績の割に、当時の水準でも厳密性に限界があった(ノイマンに言わせれば、オイラーでも、そうであるが。ノイマンはガウス、やヤコビなどの厳密に数学を定義した数学者の評価が高いーが肝心のネーターの名を出さない。「作用素環」なのに。そういった意味では、論文主義なのかもしれない。厳密であるとはノイマンにとって、言葉を費やすことであるらしい。とにかく、彼は、論文が得意であって、コンピュータの実装においては、責任者としてまとめる立場にあっただけで過大に評価されているとの批判もあるし、彼は才子であって、経験をあまり評価したがらないきらいもあったようだ)。
ここらへんの足立先生の説明は、『フレーゲ、デデキント、ペアノを読む』でフレーゲの嵌った陥穽である「概念」に対して、ただ不思議がる、純然たる数学者の説明になっている。(総合的な)哲学に基本的に興味が向かないのだ。デカルトは世界のすべてが秩序だっていることを説明しようとした、つまり、存在論であって、認識論ではないのだ(だから、カントが鍵となる)。もっとはっきり言えば、キリスト教への学問的な興味がまったくない。そういうものが払拭された後の現代的な数学者なのである。足立先生は数学に潜む文化性を擁護したが、キリスト教の果たした役割までは擁護しなかった。
ただ、あまりにを端的に過ぎるので、もう少しだけ『プリンストン数学大全』で補足した方が親切である。