なぜ、私たちは、ドイツ人に騙されるのか、騙されやすいのかの説明になってる。

ドイツ人は、何百年にわたって延々と、信仰の言い訳を続けているのである。

それはドイツ人特有の文化であって、日本人のものではないからである。

 

どうも新渡戸稲造はそれをわかって「これでいいんでしょ」としたし、上杉慎吉は実地に赴いて気づいて「そういうことでいいのか」と開き直ったのであるし、美濃部達吉は「どういうことなの」と夢から覚めるのが相当遅れて後悔したのであった。


だからこそ、美濃部達吉は評価されるべきだと思う、歴史的に。
美濃部達吉は、左翼史観、リベラル史観から、或いは、地元、同窓から、無駄なことに、過大な評価を受けているが、二流の人間だったからこそ、評価すべきだろうと思う。ここで二流とは、社会の中で浮き沈みする、社会にに奔走させられる程度の能力の持ち主のことである。二流の人間は当然に成功するわけではなく、たまたま成功したところで、別の機会を得たならば、成功していなくても不思議ではないのだ。

すなわち、一木喜徳郎との間で、カントとフィヒテに準えられる関係を築いていたのではないかと思えるのだ、重要なのは、一木が主で、美濃部は従であることである。

要は、政府(内部)の主流派は、一木喜徳郎にしろ、渋沢栄一にしろ、近世的価値観に拠る経世派で、一木喜徳郎が告白したところでは、近代思想のことは「よくわからなかった」のである。その後、留学して「よくわかった」わけではないのに注意が要る。「よくわかった」のは上杉慎吉である(だから、激しく排撃されることとなった)。

ここにやがて、児玉源太郎も加わる。

 

乃木希典とは旧知の間柄であった。児玉が東京鎮台第二連隊長時代、千葉県佐倉における演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を児玉の部隊が奇襲によって大いに破った

児玉源太郎 - Wikipedia

と言われるが、これについては、乃木を擁護する解釈もある。
つまり、これは「ゲーム」であって、前提が置かれていたのだ。
「科学的」に考えれば、その前提を無視して、この演習の意義はないのであるが、その意義を乃木は理解し、十分踏まえていたのだ。
児玉は単純に卑怯なのであるが、勝てば官軍で、

部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという

これは『からかった』というより、感想戦を借りた組織内部の「宣伝戦」である。要は、政治工作である。児玉はそういう男であるし、

陸軍大学校校長時、日本軍の参謀育成のため教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルの講義を熱心に聴講した。メッケル自身も児玉の才覚を高く評価し、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べた。

とのことであるが、本気だっただろうか?

【第3回】軍事顧問メッケルの誤算 | マイナビブックス

このメッケルである。
したがって、

己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木に対する尊敬の念を終生抱き続けた

にも疑問を感じる。

要は、主流派と目される、一木(内務省)にしろ、渋沢(大蔵省)にしろ、児玉(陸軍)にしろ、融通無碍というか、規範が緩いのだ。近代国家なのに、近代性は二の次、演習なのに、演目は二の次なのだ。

そういう連中に美濃部は「使われた」側面が否めない。

児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという

がこれは本音でなかったか。
すなわち、内内の演習でズルをできても、実戦で通用しない。演習はそのためにあるのだ。厳密にルールを設けて、そのルールのもとに教訓を引き出す、科学的訓練のことである。
乃木と児玉の評価については、再考が続いている。「落ちた」わけではないが、児玉の評価はかつてほどでない。


ここで『人格的長所』と出てきたことが問題である。
知らずと思想が反映されるものである。
普通の親友関係で済むならそうであるが、乃木と児玉に関しては、方法論の違いで理解されなければならないはずだからだ。
そこで児玉自身が乃木を評したことが重要なのである。

児玉、或いは児玉らは、酷く大雑把なのだ。児玉は内務省に勤務したときに「大風呂敷」を広げたが、早々にとん挫した。これは情勢の急転により異動を余儀なくされたことになっているが、割り引いて考える余地はあると思う。そもそも、複雑な近代組織の運営が、いきなり児玉にどれだけできただろうか。それは陸軍に於いて徐々に進められ、やがて永田鉄山で頂点を迎える。永田の前に永田なし、と言われたが、これも組織内政治で、永田の前には児玉が居たのである。

一木喜徳郎、渋沢栄一児玉源太郎は、近世から脱しきれなかったポスト・近代(初期近代)という、特殊な移行期の人材だったのである。