フィヒテの〈し〉                 無神論論争

いや、わかりやすく言うと、50のおっさんが、今時「アドラー」なんて、若い人たちを巻き込んで恥ずかしくなるようなことを言うんじゃないってことなんだけれど。

もう「戦前」は仕舞いでええやろ。

60年代生まれも順次「現役」を引退し始めているのに、その下の世代がいつまで続けとんねん。

具体的に言うと、「被害者意識」は固有の領域を持っていて、「劣等感」とは別に考えるべきだってこと。それは「責任」を巻き込んで、侵害を生む。
なぜなら、それは「人格への統合」の希求であって、方法論と区別されるからだ。


 

markovproperty.hatenadiary.com

以下のように修正して、

 

この結果、カントは仮言命法とは別に(アンセルムスの可能性命題に相当)、定言命法を格率として定礎し(アンセルムスの必然性命題に相当)、道徳を護った(『倫理の範疇を定めた』)ということであり、小賢しいことを並べているが何のことはない、アンセルムスの「擁護(所謂『神の存在証明』)」を言い換えただけである。ただし、二律背反を以て、神の「擁護」はやめたが、人間の「道徳」として、ロジックをそのまま、、、、拝借したのである

 

フィヒテに関する云々を付け加えた。


フィヒテがこれを解説する。フィヒテはカントに認められたカントの後継者でカント哲学をさらに「ドイツ国民」へ浸透させたらしい。興味深いのはフィヒテ無神論者としてやり玉にあがっただけでなく、フィヒテが弁解していることだ。

フィヒテが自誌に載せるリードリッヒ・カール・フォルベルクの『宗教概念の発展』を補完して―というか、添削、、して、でなかろうか。要は、そのままでは「まずい」と思ったのだろう―『神の世界統治に対する我々の信仰根拠について』を書いたのだが、

フィヒテによると神とは道徳的世界秩序であり、信仰とは道徳的世界秩序に対する信仰にほかならない。また、この道徳的世界秩序抜きになにかしらの実体としての神を考えることは、(引用者注:読点を追加)できない、矛盾であるとしたのである。この実体としての神を認めないという点が無神論であるという指摘をした

無神論論争 - Wikipedia

フィヒテの〈し〉である。並列乃至(肯定的)付加の〈し〉である。「できないため」ではない。

  1. 信仰抜きにエスを考えることできない【可能性
  2. 信仰抜きにエスを考えること矛盾  【必然性

の2つを主張している。これは自由意志論で、ルターが暗に批判されている。
すなわち、アンセルムスにせよ、ルターにせよ、現にイエスが恩寵として存在したことを擁護したのであって(三位一体論とは、イエスが義人であるとの主張に対して、それを否定するために必要だった。また、無から有を生み出したキリスト教の唯一無二を擁護することだったらしい。)、それを反故にした主張である。
モーダスポネンスを含意している。モーダスポネンス - Wikipediaの例文を「私が働きに行くのに、火曜でない、ことがない。」と言い換えている。
アンセルムスは存在を【必然】(表現上は【必然)としたが、フィヒテは信仰を【必然】(表現上は【必然】)としたのだ。
アンセルムスは【可能性】から【必然性】を導いたことが画期だったと言われているが(高橋昌一郎ゲーデルの哲学』ーP205『アンセルムスの推論で独創的なのは「可能性」から「独創性」を導こうとする論法である』)、それは実際のところ、結論先取りの誤謬だったとの主張が隠されている。それが、ルターの〈の〉に対抗する、フィヒテの〈し〉の効果である。
※この表現上の「性」がアドラーを理解するひとつの鍵となるようだ。要は、アドラーは、心理上の、同様の様相を主張して、(この「性」を)「傾向」と呼んだようだ
様相を巡る論述の違いで会って、すなわち、前提の違いであって、アンセルムスがイエスを擁護したことがここからわかる。アンセルムスは「現にイエスが存在すること」を実際は前提としていたからこその帰結で在り、フィヒテはその前提が「認識」に基づくからこその【背理】に続く可能性の追求であって(信じれば信じるほど信じられなくなる―認識の、表現における内在的限界)、それを「信仰」と呼んで、それが前提であるとしたようだ。