余談

markovproperty.hatenadiary.com

宇佐見りんの『くるまの娘』の評価である。

う〜む
ベスト500レビュアー
★☆☆☆☆全く読む価値なし
2022年5月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
病的な家庭に育った病的な女学生の病的な心理を病的なタッチで描いた作品。わたしにはこういった作品に感情移入できる人の心理が分かりません

なるほど。
興味を惹かれたので他のレビューも見てみた。
この方は読書家らしく、多くのレビューを残している。
どうだろう、小説に関する評価に厳しく感じられるものが多い印象受けたが、わからない。
以下のような評価も残している。

う〜む
ベスト500レビュアー
★★☆☆☆物語とはいえ容認できないものがある
2022年5月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入

ひとはどんなに恵まれているように見えても、その実ひとに言えない劣等感や人生に対する不満を持って成長していくものです。それを乗り越えていくことが「大人になる」ということであり、乗り越えて自己実現していくことが「成功する」というのではないでしょうか。

 

 

これは『パッとしない子』への論評である。
この方の年齢がすごく気になる。
まさに前々回取り上げたテリー本に見られた、時代的な「個人モデル」そのものに感じられたからである。まさに膝を打つ感じであるが、実際は、わからない。

さて、一体、何を言っているのか。アドラーの「劣等感」そのものである。

日常的な意味では、自分自身が他人に比較して精神的、身体的になんらかの欠点をもち、無価値な存在であるという、意識的あるいは無意識的な感情傾向のことをいう。

劣等感とは - コトバンク

ただし、『他人に比較して劣っているということより、劣っているものを補い完全なものにしようとする傾向のこと』であることが強調される。
つまり、元からキナ臭かった、、、、、、のだ。

ここで、述語の「補償」が謎を解く鍵である。

存在の計量可能性である。
カントは存在を目的として、それを手段としてはならないと説いた。
これを「定言命法」と「仮言命法」と分けたところで、この「手段」とは、アンセルムスの背理であるとはすでに説明した。すなわち、「必然性」と「可能性」のことである。
すなわち、比較可能な対象への「認識」の、表現における内在的限界―「認識」しようとすればするほどその「認識」が不可能―のこと(様相論理)である。

アドラーの「劣等感」の要点をコトバンクの説明からピックアップすると

  1. 劣等感は、優越することを求め権力をもとうとする感情傾向と表裏をなしているものであるといわれる。
  2. 補償されるべき欠点は、身体的なものに限定されるわけではない。
  3. こうした意味での劣等感は、教育的に望ましいものと考えられる
  4. こうした態度は、誇大妄想といってよいほどの色彩を帯びてくる。

アマゾンの件の評者は、3へ転回しつつ、4のことを言ったのだ。 

一例として、「幸福になりたいならば嘘をつくな」という仮言命法(引用者注:可能性命題)を採用する場合の問題が挙げられる。ここでは「幸福になること」と「嘘をつかないこと」の間に必然性(引用者注:必然性命題)が有るのか無いのかが問題となる。「嘘をつかないこと」は幸福になるための都合の良い手段にすぎない。

定言命法 - Wikipedia

この結果、カントは仮言命法とは別に(アンセルムスの可能性命題に相当)、定言命法を格率として定礎し(アンセルムスの必然性命題に相当)、道徳を護った(『倫理の範疇を定めた』)ということであり、小賢しいことを並べているが何のことはない、アンセルムスの「擁護(所謂『神の存在証明』)」を言い換えただけである。ただし、二律背反を以て、神の「擁護」はやめたが、人間の「道徳」として、ロジックをそのまま、、、、拝借したのである

フィヒテがこれを解説する。フィヒテはカントに認められたカントの後継者でカント哲学をさらに「ドイツ国民」へ浸透させたらしい。興味深いのはフィヒテ無神論者としてやり玉にあがっただけでなく、フィヒテが弁解していることだ。

フィヒテが自誌に載せるリードリッヒ・カール・フォルベルクの『宗教概念の発展』を補完して―というか、添削、、して、でなかろうか。要は、そのままでは「まずい」と思ったのだろう―『神の世界統治に対する我々の信仰根拠について』を書いたのだが、

フィヒテによると神とは道徳的世界秩序であり、信仰とは道徳的世界秩序に対する信仰にほかならない。また、この道徳的世界秩序抜きになにかしらの実体としての神を考えることは、(引用者注:読点を追加)できない、矛盾であるとしたのである。この実体としての神を認めないという点が無神論であるという指摘をした

無神論論争 - Wikipedia

フィヒテの〈し〉である。並列乃至(肯定的)付加の〈し〉である。「できないため」ではない。

  1. 信仰抜きにエスを考えることできない【可能性
  2. 信仰抜きにエスを考えること矛盾  【必然性

の2つを主張している。これは自由意志論で、ルターが暗に批判されている。
すなわち、アンセルムスにせよ、ルターにせよ、現にイエスが恩寵として存在したことを擁護したのであって(三位一体論とは、イエスが義人であるとの主張に対して、それを否定するために必要だった。また、無から有を生み出したキリスト教の唯一無二を擁護することだったらしい。)、それを反故にした主張である。
モーダスポネンスを含意している。モーダスポネンス - Wikipediaの例文を「私が働きに行くのに、火曜でない、ことがない。」と言い換えている。
アンセルムスは存在を【必然】(表現上は【必然)としたが、フィヒテは信仰を【必然】(表現上は【必然】)としたのだ。
アンセルムスは【可能性】から【必然性】を導いたことが画期だったと言われているが(高橋昌一郎ゲーデルの哲学』ーP205『アンセルムスの推論で独創的なのは「可能性」から「独創性」を導こうとする論法である』)、それは実際のところ、結論先取りの誤謬だったとの主張が隠されている。それが、ルターの〈の〉に対抗する、フィヒテの〈し〉の効果である。
※この表現上の「性」がアドラーを理解するひとつの鍵となるようだ。要は、アドラーは、心理上の、同様の様相を主張して、(この「性」を)「傾向」と呼んだようだ
様相を巡る論述の違いで会って、すなわち、前提の違いであって、アンセルムスがイエスを擁護したことがここからわかる。アンセルムスは「現にイエスが存在すること」を実際は前提としていたからこその帰結で在り、フィヒテはその前提が「認識」に基づくからこその【背理】に続く可能性の追求であって(信じれば信じるほど信じられなくなる―認識の、表現における内在的限界)、それを「信仰」と呼んで、それが前提であるとしたようだ。


ここに(デカルトが、ではなく)カントが近代的個人を成立させたわけだが、あらためて、カントが近代的個人の成立の、、、前提として置いた必然性が問題となっている。それがどうも、アドラーの着想のようだ。

ここで再び、アンセルムスに戻ると、アンセルムスは判断即比として、判断の停止を「最大」で具体化した。もとより、アウグスティヌスにより、神の論理は人間の論理である。人間の自由意志が「ある」のは、神の御業である「時間」を通して、自己統一を図るからである。

どうもカント以降にこれらを云々したのが、アドラーのようだ。
すなわち、方法論的個人主義周辺、、である。

社会科学の方法として方法論的個人主義を明確に位置づけたのは、シュンペーターである。

方法論的個人主義 - Wikipedia

ただし、『シュンペーターの考えは、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・ハイエクカール・ポパーなどによって引き継がれた』から、アドラーカール・ポパーから批判されることとなった。カール・ポパーらが目指していたのは、科学の方法論であって、そこに社会科学も含まれるかどうかが焦点化されたのである。

1919年のある時、ポパーは小児患者の症例をアドラーに報告した。しかし、アドラーはその患者を診た事さえないのに、自分の劣等感理論によってその事例を事も無げに分析してみせたという。

アルフレッド・アドラー - Wikipedia

彼らにとっては、操作可能な対象化への普遍的な方法論のことであって、アドラーのように、帰納的な個別の弁法のことではない。それは「全的存在」すなわち判断の帰着点として「個人」を「擁護」するが、その判断は「態度」として対象化(要素化、操作変数化)されうる。ここに、見事に、科学的統計を通して、「必然性」と「可能性」を調和させる方法を発見したのだ。
アドラーはそそうではない、ということである。そこで目指された「個人的方法論」と「個人心理学」は、いずれもフロイトに影響を受けながら、違う道を選択していたのである。
アメリカの社会心理学の基礎を築いた一人として知られるオルポートはワトソン流の行動主義派(behaviorism)の立場に立ちながらフロイト(Sigmund Freud)の精神分析の成果も熱心に摂取し』(P18『現代政治学』,法学書院)たのであるから、源流はフロイトである。メリアムが(後の社会科学研究会議に発展する)政治研究委員会の全国会議を1923年から1926年の3年に渡って開催したシカゴ大学での活動で招いたのがこのオルポートである。

1926年末に初めてアメリカ合衆国へ数ヶ月にわたる講演旅行に訪れ、大成功を収める。

アルフレッド・アドラー - Wikipedia

アドラーとは、その頃に活躍した人だったのである。
むしろ、教育の方面における、プラグマティストと比較される人である
アドラーは、「個人」とは、内部にそのような「定言命法(必然性命題)」を、「仮言命法(可能性命題)」を帰着させつつ持って、すばわち格率化させている、と言ったようだ。アンセルムスは認識対象として神を〈認める〉ことの不可能性を解いたが、カントを通じて人間の倫理として定立されると、アドラーによって、その可能性の否定は、可能な選択(肢)の独立に理解され、必然性への一義的帰着として処理されるようになった、ということである。そしてそれは、ただの「必然」ではなく「必然性」だから、傾向として、時間展開を持つと理解されたようだ(裏からアウグスティヌスの導入)。

だから、これは、教育問題である。

アウグステゥヌス→アンセルムス→デカルト→カント→フロイトアドラーの流れであり、やはりフロイトから分派した方法論的な「科学者」たちから批判されたのであった。


わたしの感想は、宇佐見りんたち若い世代は、60年代生まれではない、というものである。

ただ、怖いのは、伊坂 幸太郎によって、広められていることである。

diamond.jp

伊坂 幸太郎(いさか こうたろう、1971年5月25日 -)
70年代生まれへの余波である。

おいおい若い人たちよ。
優れた作品を多く残しているとはいえ、井坂は50のおっさんやぞ。それを無視したら、アカン。人格と作品は分けて考えた方が良いーと言うと、何か悪いことでもしたかのようだが、教育の源泉にするようなことには注意が要る。
生まれ育った背景が違い過ぎるのだ。
これは権威論証である。権威は教育と相性が良いことに注意が必要である。
それが『Diamond』の紙上で云々されるのだから、なんとも言えない気分になる。
若いのに「なぜ、そうなるのかね」という気分である。

いや、これは若い人たちを腐しているのではない。そんなことは想像できないからだ。
そうではなく、代り映えのしない、いや、変わり映えしようとしない、貧しい時代の貧しい教育の在りようのことである。豊かになっても精神的に貧しいママなのだ。