真性の文字と哲学的言語にむけての試論

言語は十七世紀半ばに刺激的なものになった。人々は言語の理解が世界の本性に関する主要な哲学の諸問題を解決する、と信じ始めたのである。それ以前のルネサンスでは、ある原言語(Urlanguage)が目標とされていた。それは、蒼天に書かれ、アダムやおそらく預言者によって語られ、あらゆる葉や石に表示作用(signature)で刻まれた言語である。しかし、内的証拠の概念が生じ始めたとき、それは原言語の一部であり自然によって与えられる「しるし」を内部に埋め込むために、ある概念を与えたのである。言語に残されたのは、人間の発話(speech)だけである。これは既約的なものである。ホッブスは規約性について果敢にも発言したが、そういったことをしたのは彼一人だけであった。あまり大胆でない人々は真の言語、より正確には次のような「実在記号(real characteristics)」もしくは「普遍記号(universal characteristics)」が存在するはずだと考えた。それは、その言語の単純要素が自然の単純要素と適合し、その適合規則が自然の許容するそれぞれの可能世界を生み出すことになるようなものである。このプログラムに対する最も野心的で、最も注目すべき貢献者はライプニッツである。その考えと、「実在(或いは普遍)記号」という用語自体は、ライプニッツによるものではなく、他ならぬウィルキンズによるものである。』(PP136-137,  第九章思考法,確率の出現,イアン・ハッキング著,広田すみれ/森元良太翻訳,慶応義塾大学出版会)

真性の文字と哲学的言語にむけての試論 - Wikipedia

後日、ライプニッツは、それはウィルキンスではなく「自分だ」と暗に主張したが、実のところ、その300年前にライムンドゥス・ルススが最初だったらしい。
ともあれ、デカルトにもその話はメルセンヌを通じて伝わったが、『そのような計画は人が「真の哲学」を手にするまでは成功できない』と否定的だったらしい。

ホッブスはともすればロックより評価されないが、「論理学」の中では、(ウォリスとの数学論争に敗れたが)明らかにホッブスである。

ウォリスはおそらく、『エウドクソス,アルキメデスニュートンボルツァーノ,の路線上』(P19,極限概念,『数学100の発見』,数学セミナー編集部,日本評論社)を走っていて、これに対するのは『デモクリトスライプニッツ,ロビンソン,ルクセンブルグの路線上』(同上)を走る者たちで、デカルトホッブスもそうであると思う。

幾何学的」とは「延長的」であるが、ライプニッツはいろいろと言っているが一言で謂うと、それは「修飾(形容)」であって修飾(形容)である以上、修飾の目的が必用と謂うことである。それが「モナド」ということであるが、おそらくデカルトにとっては、それが「代数」だったのだと思う。 

さて、モナドを「連続」させると「延長」になるだろうか。

各実数にはそこに無限小がたくさんくっついており,実数全体はもっと広い数の体系へ拡大された.この様子をごく直観的にいえば,たとえばπにくっついた無限小は

   π=3.1415...;0α1α2...α3...

なる形をしている.ここでα1

は0,1,…,9のいずれかである

 

p19,数学100の発見

アブラハム・ロビンソン - Wikipedia無限小 - Wikipedi

本書では、ライプニッツのアイデアが完全に正当なものであり、古典解析やその他の多くの数学の分科に対する新奇で実りあるアプローチに繋がることを示す。我々の方法の鍵は、現代モデル理論の基盤にある、数学の言語と数学的構造との間の関係の詳細な分析によって齎される。

超準解析 - Wikipedia

デカルトが目指したのは、実在論であって、モナド論ではない。すなわち、曲線の実相であって、極限論ではない。すなわち、「論理的な説明」であって「数論」ではない。
命題の弁証の比喩として代数の計算があればよかった。
デカルトギリシャ哲学から模倣したのは、アマルガムな中間項が、対置される存在から関係づけられることで実在化して、媒介することであって、ギリシャ弁証法連立方程式に書き換えられる(可能)、連立方程式に表せる以上図に書き換えられるだけでよかったのだ(と思う)。そもそもデカルトが扱っていた「無限」とは「無限の線を引ける」ことであった。そもそも「数」ではないのである。すなわち「無限」の(描線として表現される、媒介的な)「関係」が統一的に(万能法線として)理解できる、、、ことが目指されたのであった。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57501/1/eda049_108.pdf

「修飾」にしろ「媒介」にしろ、それを「外的」と呼ぶのは、当たり前であって、デカルトにおいては、内的/外的がアマルガムなことが、実在性である。すなわち、存在それ自体から延長が導き出されないとしても、延長がアマルガムな実在として操作可能なら十分なのである。「関係づける」ことで「アマルガムな実在を取り出す」ことで「統一の傾向(万能法線)を見出す」ことが「次の段で、できる」のが、デカルトの企図であった。「無限」は「数」ではなく〈延長〉としての「線」ではなく「描線(線を描くこと。描かれる線)」にあったそれを有限回で達成するのが「万能法線」であるので、「無限」の表記には関心がなかったのではなかったかと推察する。

ライプニッツは「新しい数学」の影響を受けたのではないだろうか。つまり、ウォリス以降の超越数である。なぜなら、ライプニッツは、法学者であって、「図」よりも「計算」それ以上に「規範」が大事だったのだ。
ただ、「矛盾」と言ったことがそもそも論理的なことなのであるから、「図」と直接の関係がないのである。デカルトが言ったのは、アンセルムスの影響を受けた、「様相」であって、ラプラスの言う「比喩」性の意味合いがここにある。
すべてを説明しきる必然性を欠くのだ。
要は、アンセルムスで言うなら、「二段目」の可能命題である。〈すべて〉は「一段目」の神へ帰着するから、そんなことは「宣言」することであって、「解釈」することではない。「יהוה(ヤハウェ)」はみだりに口にする必要などない、といった感慨に近いのではないかと想像を広げてみる。デカルトにおいて可能であるとは、幾何学的な具体であって、神の領域にはない。

その点でデカルトホッブスは近いが、ライプニッツと  は近いかも知れない。

カントの方法 / 薮木 栄夫【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア

 

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0340703.pdf

ポールロワイヤルの『論理学』は『概念(Conception)』、『判断(Judgement)』、『推論(Reasoning)』、『配置(Order)』で構成され、『推論(Reasoning)』で三段論法を取り扱い、『「配置」では、大半の数学を特徴づけるような演繹的な非三段論法の推論が扱われている。特に第四部の最初の10章には、古代から二種類の幾何学的推論を構成すると想定されてきた、「分析」と「総合」の概念についての入念な論考が或る』(P128,第九章思考法,確率の出現)

Probability(偶々「在る」ことの信頼性)は事象的な(頻度的な)可能性と命題的な可能性に分かれていたのだが、ギリシャ哲学者のデカルトにせよ(ポール・ロワイヤルはデカルト的であるが、むしろパスカルと仲間だったらしい。その意味で、帰納的推論も強要したデカルトを批判する意図があったのか、非演繹的推論を取り上げなかったらしい。デカルトパスカルの関係を考えるうえでも興味深いし、またライプニッツによるデカルト批判もこの点から考察できそうである)、法学者のライプニッツにせよ、命題論理にかけていたのではないかと思う。

※これをカントの研究者である薮木栄夫が取り上げた意義が注目されるのである。
この「カント」は後世のフォン・ノイマンが目指した「カント」であることが想像できるからである、すなわち、演繹のみの「大統一理論」の目的である(フォン・ノイマンは苦渋の選択で挫折した)。


薮木はいきなり力学へ飛ぶが、まさに「飛躍」である。ライプニッツがそれを述べたとしてもそれは「果実」であって「理由」ではない。ライプニッツは物理学者ではなく法学者/数学者である。