なるほど。

自分の素人意見では(意味ないけれど)、野矢にしてもそうだけれど、クリプキからヴィトゲンシュタインを考える方にしても、暗に数学と論理学乃至哲学を分けて考える「ヴィトゲンシュタイン後」の学術界を前提としているから、「なぜ、ヴィトゲンシュタインなのか」が、「ヴィトゲンシュタインの外」の問題となってしまって、いまいち、よくわからなくなるように思う。

別にヴィトゲンシュタインに限った話でなく、カントにしても、デカルトにしても、そうだろうと思う。デカルト自身の「我思うゆえに我あり」の言葉に、カント的な意義は「ない」。デカルトとカントは違う世界に生きて居た。

ヴィトゲンシュタインは数学史(まさにパラドックスと関係のある集合論の歴史)から考えると、おそらく、ある系譜に連なっていることが、わかる。

数学者の中にも、「計算屋」と「法律屋」が居たからだ。
数学に法学を方法論的に持ち込んだ確信犯がライプニッツで、彼が公理論とシンボル操作を結び付けた嚆矢だろうか?(シンボルを思いついた数学者はほかに何人もいる。)
知らない。

そもそもラッセル(のみならず、議論を通じて論理学者の界隈)に影響を与えたチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがほとんど無視されているし、「論理主義者」たちが拘った、当時の数学の課題も考慮されていないように見える。
それが統一性の喪失の機序でないかと思う(そのように統一感を欠いて視線を向けると、ヴィトゲンシュタインがひとり浮き上がって見える。単純に、そう見るからそう見えるのだろう、という話である)。
要は、(その実、体よくまとめただけの)「近代」のガイダンスだけ残して何も「実績」がない、カントの影響が大きすぎるのだ。
それが〈主体〉と〈判断〉のテキストからの除去という当時の課題を見えにくくさせているように思う。〈経験〉はその二次的問題でないかと思う。

当時の数学界の勢力図があって、気質的なことも含めて、ドイツ人とイギリス人の微妙な関係も無視されているし、イギリス国内においても、オックスフォードとケンブリッジの微妙な関係が無視されているように思う。時代が異なるとはいえ、ハミルトンを生んだアイルランドですら「別枠」扱いされる世界なのであった。

ドジソンの、議論を通じた仮説命題への問い、数々のパラドックスの比較、(ベン図に対抗した)論理図の発案、(ブールによるシンボル操作に基づく演算化の研究を引き継いだであろう)命題の引数化は、まさに〈論理空間〉の発見ないし発展であって、ヴィトゲンシュタインが、ライプニッツ、ドジソンを無視して「存在し得た」とは、到底思えない。

ヴィトゲンシュタインラッセルの反射としてからしか考えないことが(それでいて一方で、カントを暗に背景とすることが)、相当無理があるのだ。

デカルトのころには、哲学とはまさに「諸学の王」。。。。というよりも、諸学の経験の中から類推してアイデアをまとめ上げたものであって(デカルトは各地を放浪したことでまるで建築屋のようなアイデアを持ったらしい。「デカルト座標」はただの「丁張り(水遣り、遣り方)」に違いない。)、それを「神」の名の下で行っていたが、カントのころには、それが終わっていたのだ。数学は、哲学から、「卒業」していたのだ。

土木工事における丁張のかけ方!丁張について元ゼネコンマンが徹底解説【若手技術者向け】 | つちとき

「座標」というより、「墨打ち」じゃないかと思う。


要は、ヴィトゲンシュタインは、

  • ラッセルを通して、ラッセルの背後に居た(ブールはもとより)ドジソンらイギリス人の研究を受け継ぎつつ
  • そもそもの集合論との関係に就いて、ライプニッツの議論を引き継いだ
  • ただし、論じ方は、(やはりドイツ人の)カント流で、ガイダンス(その実、まとめ)に終わった
  • それがいかにも、クリプキと源流(スコラ哲学)が異なっているように見える

ということが言えそうである。

こういったことは専門分化された現代からみると、意外に珍しいことではなく、高瀬先生にデカルトへの人文学的意味がまるで分からないし、数学の理解は明晰であるが、一方で、隣接する、透視図の100年の蓄積すらどうも知っていないのではないかと思える。足立先生も、数学の理解は明晰であるが、そのせいで、フレーゲがなんで「基礎的なこと」で悩んでいたか、理解に苦しむのである。いや、それが、当時の本当の課題やったんや。お二人とも、専門的な訓練を十分受けて、優秀なばかりにあまりに明晰で、反対に、当時の「胡散臭い(曖昧な)」話がよくわからないのだ。