ヴィトゲンシュタインに反論するには(というよりも、思い込みを打破するのは)、おそらくレヴィストロース、ヴィトゲンシュタインで使えるアイデアは、〈像〉と真理値表で、議論できるアイデアは〈全体〉。検証すべきなのは、方法論的ホーリズム

  • はじめに「真」ありきとするから、「解釈」を否定する(ニーチェの議論)
  • はじめに「⊥」ありきで、それがブリコラージュの〈像〉と考えるなら(レヴィストロースの議論)、〈論理空間〉を置くことに拠って、〈真〉は〈偽〉と対立して成立する(デカルトの議論)。
  • 〈外部〉は存在しないが、〈経験〉は存在し、〈規約〉もまた〈経験〉である(ノイマンの議論)。
  • このとき〈私〉は訓練される主体であり、神は〈⊥〉の総てを含む存在である(パスカルの議論)。
  • したがって、1+2=3が次に、1+2=5となることはない(それは「数列」と呼ばれない。名称が(5からfive乃至適当なシンボルへ)変わっても名(概念)は変わらない)。これを「合理性」と呼ぶ。しかし、神は、〈⊥〉を内在するので合理性だけで把握できない(アンセルムスの議論)。
  • 数列は、〈⊥〉から「偽」を排して成立せしめているのに、過ぎない。だから、訓練の対象である(カントの議論)。
  • これは「解釈」ではなく〈論理空間〉である。したがって、構成による循環は「ある」。このとき、保存量も「ある」(ネーターの議論)。
  • トートロジーに関しておそらくヴィトゲンシュタインは間違えた(自己に帰着する展開のすべてがトートロジーとなるわけではない)。

markovproperty.hatenadiary.com

このままでは、ヴィトゲンシュタインはただのカルトになってしまう。

それが惜しいワケではないが(思いつくだけなら、誰でもできるから。)、面白くない。

論理学史はもっと豊かな内容を誇ってよい。

今はただの平板(石板)である。もっと活き活きとしたもののはずだ。