反応自体が根拠というべきか
— 諸隈元シュタイン (@moroQma) July 1, 2022
教師の指示通り数列計算を続けられないクリプキ的懐疑論者を『探究』§185は「指さしの身振りに反応して、生まれつき指先の方向を見れない人」に喩える
対して、指先の方向を見てしまう(「68+57=125」と答える)よう訓練されたのが正面的解決者https://t.co/SWM1qz7i2I
ヴィトゲンシュタインに反論するには(というよりも、思い込みを打破するのは)、おそらくレヴィストロース、ヴィトゲンシュタインで使えるアイデアは、〈像〉と真理値表で、議論できるアイデアは〈全体〉。検証すべきなのは、方法論的ホーリズム。
- はじめに「真」ありきとするから、「解釈」を否定する(ニーチェの議論)
- はじめに「⊥」ありきで、それがブリコラージュの〈像〉と考えるなら(レヴィストロースの議論)、〈論理空間〉を置くことに拠って、〈真〉は〈偽〉と対立して成立する(デカルトの議論)。
- 〈外部〉は存在しないが、〈経験〉は存在し、〈規約〉もまた〈経験〉である(ノイマンの議論)。
- このとき〈私〉は訓練される主体であり、神は〈⊥〉の総てを含む存在である(パスカルの議論)。
- したがって、1+2=3が次に、1+2=5となることはない(それは「数列」と呼ばれない。名称が(5からfive乃至適当なシンボルへ)変わっても名(概念)は変わらない)。これを「合理性」と呼ぶ。しかし、神は、〈⊥〉を内在するので合理性だけで把握できない(アンセルムスの議論)。
- 数列は、〈⊥〉から「偽」を排して成立せしめているのに、過ぎない。だから、訓練の対象である(カントの議論)。
- これは「解釈」ではなく〈論理空間〉である。したがって、構成による循環は「ある」。このとき、保存量も「ある」(ネーターの議論)。
- トートロジーに関しておそらくヴィトゲンシュタインは間違えた(自己に帰着する展開のすべてがトートロジーとなるわけではない)。
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このままでは、ヴィトゲンシュタインはただのカルトになってしまう。
それが惜しいワケではないが(思いつくだけなら、誰でもできるから。)、面白くない。
論理学史はもっと豊かな内容を誇ってよい。
今はただの平板(石板)である。もっと活き活きとしたもののはずだ。