ヴィトゲンシュタインを腐したいわけではない。

すぐれた研究者だったのだろう。

ただ、カントやヴィトゲンシュタインが「天才」と評価されるのは、奇妙な話なのだ。

それはまるで、ヒルベルトが「ヒルベルトプログラムを考案(また発表)した」から「天才」と評されるようなことだ。もとよりヒルベルトには燦然たる業績があるのにかかわらず。

カントは、きわめて異教的とはいえキリスト教的世界観の範疇に収まっていたデカルトを、その方法論のいっぽうの先達であるアンセルムスを含めて「非近代的」とリニューアルして紹介し、「近代人」(と近代人による社会の構想)をまとめあげたことが、その仕事である。実際にそれでどうなるかは、他の者の仕事となった。解釈してガイダンスを示したのである。

ヴィトゲンシュタインは、ドジソンに蓄えられた古典的な論理学の成果、就中、(数学で先行していた〈空間〉概念に類似した)〈論理空間〉を、定義に拘るドイツ人の伝統なのか、まるでニュートンに対するライプニッツのように、イギリス人に対してうまく説明したため、真理値表などの発明とはほかに、ラッセルが原子論のアイデアを利用することができたのである(ラッセルがヴィトゲンシュタインを評価するのは当たり前である。アーサー・ケイリーはもちろんウィリアム・ローワン・ハミルトンを評価する、菊池大麓が強く勧めたにも関わらず高木貞治が興味を示さなかったとしても)。

日本人の場合、仏教と中国思想がこの関係に近い。仏教は〈人間〉という単位を措定して実証的な一方、中国思想は〈世界〉を構想して(現実の世界に対して)解釈的である。どちらも概念の獲得をもたらして有益だった。この場合、〈人間〉と〈世界〉の関係が〈空間〉である。

ただ、ヴィトゲンシュタインが「天才」と評価されるのであれば、シャルル・ピエール・ボードレールもまた「天才」と評価されるべきだろう。
ドイツ人は説教の順序を知っているだけの話で、アイデアの源泉に過ぎなければ、そういうことである。

こういった議論が錯綜するのも、戦後の議論を無視しがちだからではないかと思う。

「共感」だけしかターゲットとならないのは、戦前の議論でないかと思う。

名前を出せば、その議論ができているわけではないのだ。議論を議論たらしめるのは、方法論である。

ギリガンをギリガンたらしめるのは、「戦後」を席巻したマルクス主義と呼ばれた戦前の前期近代主義の主体主義、前期近代主義に棹差すオカルト主義と袂を分かつときでないかと思う。

それには方法論が必要で、ハーバート・ハートたちの議論である。
そして、日常言語学派に影響を与えたのが、ヴィトゲンシュタインであって、ヴィトゲンシュタインが「ヴィトゲンシュタイン」なのは、この議論領域においてでないかと思う。

markovproperty.hatenadiary.com

ラッセルには、ドジソン(ルイス・キャロル)が必要だったように、ここでは、フィリッパ・フットが必要な気もする。

「共感」だけでは主体主義で(たちまちラディカルオカルティズムに取り込まれてしまう懸念がある。)、「共感」と「信頼」を適切に関係づけて、有意義になるのではないかと思う。