ヴィトゲンシュタインを腐したいわけではない。
すぐれた研究者だったのだろう。
そりゃむしろ「群像」がなんでそんなものを載せたのかが知りたいぜよ https://t.co/bwZrZgAQbn
— 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ (@tonton1965) June 29, 2022
こういった議論が錯綜するのも、戦後の議論を無視しがちだからではないかと思う。
「共感」だけしかターゲットとならないのは、戦前の議論でないかと思う。
名前を出せば、その議論ができているわけではないのだ。議論を議論たらしめるのは、方法論である。
ギリガンをギリガンたらしめるのは、「戦後」を席巻したマルクス主義と呼ばれた戦前の前期近代主義の主体主義、前期近代主義に棹差すオカルト主義と袂を分かつときでないかと思う。
それには方法論が必要で、ハーバート・ハートたちの議論である。
そして、日常言語学派に影響を与えたのが、ヴィトゲンシュタインであって、ヴィトゲンシュタインが「ヴィトゲンシュタイン」なのは、この議論領域においてでないかと思う。
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ラッセルには、ドジソン(ルイス・キャロル)が必要だったように、ここでは、フィリッパ・フットが必要な気もする。
「共感」だけでは主体主義で(たちまちラディカルオカルティズムに取り込まれてしまう懸念がある。)、「共感」と「信頼」を適切に関係づけて、有意義になるのではないかと思う。
コロナ狂騒とウクライナ・ロシア戦争が、戦前の亡霊の最後の騒ぎになればよいと思う。それに便乗した「ソ連型科学者」も含めて、主体主義は暴力社会を帰結することを踏まえて、戦前を反省し戦後の議論を始めるべきである。