日常言語学派

あぁ、法律を勉強されている方か。

標準的な表現としては

 結婚しきって、ときに他人を傷つけるよね

となるかな?と思うけれど。それは心情を思いやる気持ちだよね。

「加害性」と謂うことなら、「加」+「害」+「性」であるから、それによって利益を損なう事態を生じさせる外見から判断される一般的な性質のことじゃないかな。メカニズムのことだから、主観性は排除されているんじゃないかと思う。

例えば、「悪口」に加害性はあるか、と考えたときに、悪口を「言う」ことの外見は様態・程度を取り上げ、実際に傷ついているかどうかに関わらず、一般的に「そうであっておかしくない」ことが判断される、と思う。具体的な法を参照したわけではないけれど(知らない)。

結婚式の「加害性」で指摘されていることは、「意思に反して」求められる時の「強制性」のことだよね。

単に「本当は」嫌だと思っているだけで足りるのか、何かしらの具体的事実が必用なのか。つまり、錯誤を考えたときに、「動機の錯誤」であれ「客体の錯誤」であれ、信頼を損ねる機序が必用で、信頼は互いに醸成するものであるから、信頼に対する責任は一方的に逃れられないんじゃないかな。
そこに衡平な態度が求められるから、ハラスメントが禁止されるのであるけれど、例えば、セクシャルハラスメントなら、言動が性的でみだりに侵されるべきでない精神の平穏を損ない、或るいは、ある行為によって心身の性的な安全が危険にさらされることを指すとき、それが客観的に判断される機序が

つまり、もちろん招待する側は常識的な範囲で相手の事情を考えるべきであるし、招待された側も、信頼関係を損ねない程度に付き合うことが期待される、それはあくまで「期待」であると同時に、「付き合う」には、断るにも「断り方が在る」ことを含んでいるのであって、「上手な付き合い方」を言うのであるからそれは「社会性」で、確かにコストであるけれど、負荷的なことを以て「加害性」と呼ぶのは、「断りにくい」という主観を「断れない」という客観に結びつける意図であって、合理性を欠くように思う。

社会は共感で成り立っているけれど、共感は強制されるものではなく、信頼されるもので、そこの各々に対する負荷がかけられるけれど、個別の不利益を生じるとはいえ、それが直ちに社会的に相当な程度を超えて不合理とは言えない。
衡平に付与されるべき信頼感を損ねる具体的な振る舞いが求められるはずである。
すなわち、今件に関しては、分岐問題であるがゆえに、二段階の論理が要るだろうと思う。「共感」と「信頼」の可能な関係のことである。

twitter.com