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すごいね、この本。

【メモ】

「許諾」について

  1. 確認させていただきます
  2. 確認してよろしいですか
  3. 確認させていただきますね

1が『新丁寧語』で、応答(反応)がなく、定型語の一方的な押し付けなんだけれど、それを緩和するための「丁寧さ」が先取られた、「予測変換」な、科学的な指示になっている。要は「ベルトコンベヤー方式」なわけだ。
すなわち、「意志の欠缺」であって、したがって、「主体的」な〈判断〉問題である。

ここに在るのは〈判断〉の正義ではなく、手続きの正義で、実証的な正義だ。
それがどうも非人間的に感じられるらしいが、「反射神経」に長けた若い人ほど、慣れるのに早い。この類の屈折劣化は、合理化の一里塚だろうと思う。高尚な言語からチープな  に変わったわけだ。それでもある種の共感作用は必要なわけで(単なる作法ではないだろう)、(本体の)アクションという大きなカロリーを燃焼するには、(導引となる)エコーという小さなイグニッションが必用らしい。人間とは実に不思議だ。
先取りされると、ノッキングが起こる単純な仕組みとなっている。不完全燃焼だ。

で、これは触れられているかわからないけれど、「確認してよろしいでしょうか」の前には、予備動作がある。
そういった意味で、「確認させていただきます」は、単なる文上の屈折劣化だけではなく、文脈上の劣化という、二重の意義があるかもしれない。文章構造自体がそうなるように合理化されているのかもしれない。
この構造変化が肝で、謙譲の漸減効果ということならば、意外に日常的に取り繕っていて、「確認させていただきます」は、「確認させていただきますね」になる。
これも一部で不評で、「なれなれしい」のだが、(劣化した)エコーの強化と言える。
なれなれしくしているのだ。しかし、「丁寧」である。そういうすり合わせである。

つまり、2(P)→1(p)→3(P)で、括弧内は感情の値付けで、1を挟んで前後の2と3は同価であるが、どれくらい違うかと言えば、「円」と「ドル」くらいに違う。


一方で、これもまた、たいそう評判が悪いのだが、

 

 もしお気を悪くされたのであれば

 

も、似たようなことではないだろうか。
「主体無視の修辞学」ゆえに「実証主義修辞学」でも立ち上げられそうである。

そうなると、この本の結論が、コミュニケーションの劣化であるならば、論理主義からの逃亡が、いかに根強い感情に支えられているかが、わかるのであった。
そうなると、屈折劣化による合理化よりは、合理化に関して多少大きなことを扱っていそうである。
何が言いたいか。
「語尾の屈折」(或いは、コピュラ)と「仮に」が同義であることである。
すなわち、「論理」とは、全体の表現の隅々に係る体系を持つことであるということである。つまり、「論理」とは、「節」や「句」で表現されて終いではなく、「系」で理解すべきことである。これが「論理」が「文法」に納まらない理由となっている。