今日の道徳

「そんなことを言っているのではない」と反論されるだろうけれど、その反論にあまり意味はない。

むしろ、河瀨直美と同じく、心理主義が問題だからだ※。
※ただし、彼女は、政治家でも弁士でもない、アーティストだから「参照して考えさせる」存在である。speechでも、lectureでも、   でもなく、言うならば、「問答」である。そういった意味で、国際法学者は、あいからわず変である。speechがヒロイズムに訴えかけるのは、ナポレオンをみるまでもなく、常道である(また、下の問題に関係して、必要なことである)が、河瀬の祝辞を並べるわけにはゆかない。


これは論文ではなく、共感を求める「作文」(せいぜい、感情に訴える論証)だから、問題である(し、これは、おそらく「試験対策」の泰斗、伊藤真による、意図的なものだろう。要は、本論に入らず、周辺の事情で誤魔化す「弁護戦術」である)

凄惨を極めたアフガニスタン戦争(2001~2021年)は米国史上最長の戦争でした。米国の嘘で始まったイラク戦争でも数十万人の犠牲者が出ています。シリアからも多くの難民がポーランド、ドイツに押し寄せてきました。これらについては日本でも今のウクライナ戦争ほど関心がなかったように思います。避難民の姿にしても白人だから感情移入しているのではないか、欧州で起こった戦争だから悲劇的状況にこれほどショックを受けるのではないか。無意識の差別意識があるのではないかと自分の中に潜むダブルスタンダードに気づいて怖くなります。また、毎日目にするウクライナの映像を見ても銃を持った戦闘員は男性で、子どもの手を引いて逃げるのは女性ばかりです。たとえ18歳から60歳までの男性はウクライナ国外脱出を禁止される法律があったとしても、その存在を含めてジェンダーステレオタイプ無意識のうちに植え付けられている気がしてここでも怖くなります

  • 正義は条件を吟味することですが、それゆえに「条件付き正義」は正義ではありません。
  • 国内法体系と国際法体系は独立して(相互に対象化して)いる。
  • (ダブルエフェクト原理を拡張した)「積極的義務」と「消極的義務」に基づいて合理化された「自決」を受け入れる事実上の権利である「抵抗権」が国民にはある。

ここでは、倫理と権利が、個人と国民が敢えて混同されていて、典型的な詭弁を構成しています。

【参考】特に、重要な、「戦後社会」の議論において本質的に参照されるべき、共通する論証構成上の観点を含んでいますので、引用します。 鍵は「ダブル」です

こうした弱点を認めつつも、フットはダブル・エフェクト原理に一定の評価を与える。それは、この原理が人々の倫理的な直感にある程度の論理的な説明を与え、また「より大きな危害を避けるため」という理由さえあれば何をやっても構わないとする結果主義的な倫理観に歯止めをかけると期待するからだ。そのうえで、彼女はダブル・エフェクト原理と似ているけれども、より優れた判断基準として、「消極的義務/積極的義務」という区別を提示する。

macska dot org » 「消極的義務」の倫理――「トロッコ問題」の哲学者フィリパ・フットとその影響

ハーバート・ハートの「一次ルール」「二次ルール」、アマルティア・センの  、スマリヤンの  、ゲーデルの   、そして、フィリッパ・フットの「積極的義務」「消極的義務」です(ほかにも、「積極的自由」「消極的自由」もあるでしょうか、もっとさかのぼれば、論理学や数理経済学における「2階」条件もそうかもしれません)。つまり、〈判断〉の不都合を〈収束〉させる方法論のことです。
伊藤真は、これらに反対する、心理主義に立る「人間主義」(原基たる人間を本質とする、本質主義)です。彼にかかれば、すべて葛藤の問題として内省に帰着します。つまり、〈私〉がどう考えるか、の繋がりだけが重視される、主体思想でしょう。
端的に、機械的な方法論(科学も含まれますが、直ちに科学を言う者でもありません。)を否定する、オカルトです(このようなオカルトがダメとも言い切れませんが、それは社会が動員を求めるからです。しかし、それが個人の権利を離れると「愛国」そのものなのです。
民主主義には我々の経験上3種類あって、①「愛国民主主義」②「権利民主主義」③「財政民主主義」です。古い「リベラル」は②を強調したものですが、最近は、①へ軸足を移してきているのが、目につくようになりました。「寄り添い民主主義」とも言えますから、「愛の民主主義」と言い換えた方がよいかもしれません。)。要は、動員の共感(内的動機付け)に依拠する考え方です(これは、宗教以外、就中近代国家に於いては、軍隊の兵隊教育で重視されてきました。ですから、皮肉です※)。
彼らが「どっちもどっち」と言われることに不満なのがそれを理解していない所為だとわかります。これは方法論的に問題と原因があることを指摘しています。「方法論的」という(学術上の)語彙を知らないのかもしれません。

続けてみます。

それでも日本国内で戦争反対の声を上げ、即時停戦を求めていくことには意味があると考えています。「日本でデモなんかしても、相手国の元首にそんな声など届くはずがない、そんなことで戦争や人権侵害が止まるはずない」という声も聞きます。自分の国のことで精一杯で余裕がないということであれば理解できますが、そうではないようです。「選挙に行っても無駄」という発想と似たところがあるように思います。選挙に行っても何も変わらないと思っている人は、行かなくても変わらないと思い込んでいるようです。しかし、主権者が選挙に行かずに放置しておけば政治はどんどん悪くなります。選挙とは為政者に緊張感を持たせるためにも重要な手段だからです。それと同じように戦争や人権侵害に対し国際社会が批判し声を上げ続けることには重要な意味があります。

 


伊藤真は所詮、商売人だったとあらためて確認できた。