ルイス・キャロルの忘れられた歴史的貢献

たとえば、『このりんご』という個別者は、『赤い』という普遍者とは本質的に異なるものであると見なされ、主語─述語形式の文章においては、前者の名前は主語としてのみ、後者のそれは述語としてのみあらわれなければならない

ラッセルの逆襲|大学レポート完成文館|note

これは(素朴)集合論の話であって、ヴィトゲンシュタインにしろ、ラッセルにしろ、これだけ読んでいてもほとんどわからないでしょう。

就中、ヴィトゲンシュタインにしろ、この時代の論理学者が少なからず数学者だったことは有名だが、数学史から語られることはほどんどありません。

実は似たような著述家に、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがいます。
彼は、オックスフォードのクライスト・チャーチでもっとも将来を嘱望された若き数学者でしたが、むしろ、『不思議の国のアリス』と当時の最新技術だったカメラの技術法で名を遺しているようです。

 

Symbolic Logic, Part I. 1897, ISBN 0486204928; Part I Ii, 1977, ISBN 0517523833 『記号論理学』:第1巻は1897年刊行、残りを収録したバージョンは1977年に刊行[9]

ルイス・キャロル - Wikipedia

これは『概念記法』(1879年)、『算術の基礎』(1884年)、『算術の基本法則』(1893年)の後に在って、ラッセルのパラドックス(1901年)、『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』(1911-1913年)の前にある、死ぬ前年に刊行された最晩年の著書のようです。

そうとも!ルイス・キャロルは、本名ドジソン氏は、ブールの学問の専門家なんだ

P101,『ロジ・コミックス』

ここでラッセルが言う「ブール」とは、ブール代数のジョージ・ブールです。
実は、ラッセルが「床屋のパラドックス」を言ったのであれば(P164『ロジ・コミックス』)、

『論理的逆説』(1892年)のひとつのヴァージョンにこのようなものがあります。

3人同時に店にいなくなることはできません。

もしも:

  カーが店を出ていて、そのときにアレンも出ていたらブラウンは店にいる。

    もしアレンが店を出ていたら、ブラウンも店を出ている。

では、カーは外にでることができるか?

P233,『数の国のルイス・キャロル

これは当時、物議を醸したようです☟検討
ラッセルは、これと「ゼノンの(亀とアキレスの)パラドックス」を無限に言及する(ドジソンの)パラドックスを「論理学に対するドジソンの最も偉大な貢献」と言ったそうです(P235,『数の国のルイス・キャロル』)。素直に想像するなら、ラッセルはパラドックスを突然閃いたのではなかったと言えないでしょうか?
前後関係がわからないので、なんとも言えません。

バートランド・ラッセルは「プリンキピア・マテマティカ」(1903年)で簡単な議論をしている。それによれば、自明ではない命題間の関係である含意 implication (「pならばqである」という形式による結びつき)と、自明である命題間の関係である推論 inference (「pであるゆえにqである」という形式による結びつき)を区別すべきだという。

亀がアキレスに言ったこと - Wikipedia

ウィトゲンシュタイン派の哲学者ピーター・ウィンチもまた「社会科学の理念」(1958年)のなかでこのパラドックスを扱っている。彼が論ずるところでは、このパラドックスが示唆しているのは「推理をしようとする実際的(actual)なプロセスがつまりはこのパラドックスの核心なのだが、それは論理で定式化されたものとしては提示しえない何かだ…。推論を身につけることは命題同士の論理的な関係を明らかにすることを教えられればよいということでは全くない。それは何をするかを学ぶことなのだ」(p.58)。

亀がアキレスに言ったこと - Wikipedia

ほかにもドジソンは幾つも考えていて、『身長が5フィート以上の男は多い』『身長が10フィート以上の男は多くない』という一見矛盾じみた状況をこう結論づけています。

 

 身長が10フィート以上の男の身長は5フィートより高くない

 

これは英語にするとわかりやすく、"Men over 5 feet high are numerous""Men over 10 feet high are not numerous""Men over 10 feet high are not over 5 feet high"で、まさに、『ふしぎの国のアリス』『鏡の国のアリス』です。
アリストテレスは〈鏡〉の隠喩を代表する人物です(〈芽〉の隠喩の代表が「プラトン」:新プラトン主義で、その実、「流出説」のプロティヌスでしょう)。

アリストテレスの「(論理学は)新しい、必然的な推論」(P99-100,ロジ・コミックス;「どうだい?既に分かっていることから、新しい、必然的な帰結が導かれただろう!」)が、スピノザの「超越」にどう結びついたでしょうか。

ドジソンの議論では、文の要素からなる文法を数式のように扱っている様子が見えます。もとより、エピメニデスのクレタ人の嘘から影響を受けた「クロコディルス(Crocodils,ワニ)」とタイトルが付いた話も考えました。ドジソンの『記号論理学』に掲載されているそうです。

テトスへの手紙の中で、パウロは「クレタ人はいつもうそつき」だから彼らはキリスト教という唯一の真理を信じていないとテトスに警告した。パウロは彼の主張の根拠としてエピメニデスを引用した。彼は(いつもうそつきのはずの)クレタ人の言葉を使って「クレタ人はいつもうそつきだ」と主張し、同時に(クレタ人である)エピメニデスが確かに本当のこと(クレタ人はいつもうそつきだ)を言っていると結論しており、矛盾を生じさせた。

エピメニデスのパラドックス - Wikipedia

キリスト教でさかんにパラドックスがとりあげられたのは興味深い事実ですが、信仰と言葉の関係でしょうか、ルターとツヴィングリの議論を思い出させます。
ドジソンは、パラドックスを意識していたでしょうが、「ワニが何をしても嘘を言ったことになる」(P232,『数の国のルイス・キャロル』)と結論付けたそうです。
彼が論理学の世界では大成できなかった理由があるようです。
ドジソンこそが史上初めてエピメニデスの名を取り上げたうえでパラドックスを論じたでしょうか?それについて言及する文言が『数の国のルイス・キャロル』の文中に見当たりませんでした。

ドジソンの論理学上の最大のライバルは、ヴェン図を考えたジョン・ヴェンで、彼はケンブリッジ大学の数学者でした。

ジョン・ベン - Wikipedia

興味深いのはドジソンがこう批判することです。

キャロルによると,ヴェン図ではプラス記号 '+' が"そこに何かがある"領域を表し,網掛けの部分が"何もない,空"を表します。図には宇宙が含まれません(宇宙は図の外にあると考える)。キャロルはこの点を強く批判しました。

P288,『数の国のルイス・キャロル

ドジソンの図には「宇宙」が含まれていました。
ラッセルとヴィトゲンシュタインの議論の背景には、集合論と、それゆえに、極限論があり、そこには、ドジソンらの「宇宙」を図に含むか含まないかの議論、ライプニッツらの「極大」「極小」を数に含むか含まないかの議論が先んじてあったのです。

論理を図で表現することを始めたのは、オイラーですが、オイラーこそ関数の発明者で、オイラーによって、デカルトの方程式が〈数〉として言及されることとなったことも忘れてはなりません。

オイラーが批判したのは、実際のところ、デカルトでしょう。

デカルトの描いたもの(座標の元祖)は、実際のところ、すでに100年の蓄積があり、ルネサンス期の建築と絵画で華開いた透視図でしょう。光学と密接な関係があります。

また、ドジソンが扱っていた論理はアリストテレスの三段論法のようですが、ドジソンの議論や、ラッセルがそのドジソンと同じものを見て違うことを発案する以前に、アリストテレスの論理学をクリスティーン・ラッド=フランクリンがアメリカで完成させていたことも忘れてはならないでしょう。

その後は、ドジソンのような論理学の取り上げ方の伝統は、ヴィトゲンシュタインとオックスフォードの「日常言語学派」の関係にも影響を与えていたのではないでしょうか。
イギリスは、数学の中心地でなかったようですが、この後、ケンブリッジアラン・チューリングが登場します。

 

結局、ラッセルとヴィトゲンシュタインの確執は、変数の取り扱いに帰着するように思えるが、ラッセルにはヴィトゲンシュタインが、方法論的ホーリズムに見えたということだろうか?


☞検討

これは『数の国のルイス・キャロル』では、これを知って興味を抱いた、オックスフォード大学の論理学の特待教授ジョン・クック・ウィルソンとの間で議論となり、後日、『論理の論点(A Disputed Point in Logic)』にまとめて出版しましたので、巷間知られるところとなったとのことです。

ドジソンは、カーとアレンが共に店の外に出ていると、ブラウンが店にいると同時に店の外にいなければならないので、それはありえないという点ではウィルソンに同意しましたが、しかしアレンが店にいる限り、カーは間違いなく一人で外に出ることができる、と主張しました。

P233,

これは、これだけ読んでいても、彼らが一体何を問題としていたか、なかなかよくわかりません(少なくとも、私は)。
実は、ドジソンは、背理法を主張したというのです。

wiis.info

仮言命題は、その帰結部分が偽であっても、正当なものと見なされうるのか?

ルイス・キャロル 石波杏訳 ある論理学のパラドクス A Logical Paradox

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが論理学に残した貢献はこの問いを発したことだったでしょうか?
私は、このとき真理値を割り振ると、案外、議論の見通しが立つことに気づきました。

真理値表 - Wikipedia

真理値表はヴィトゲンシュタインの発明であるとのことです。

ドジソンの一連の研究

  1. 「ない」ことの証明
  2. 「ある」とは単に「ある」のではなく、規範化されて「ある」

1については、「数が「ない」」ことが「ない」のであれば「数が「ある」」のであるから、「極大」「極小」という数を考える必要が「ある」といったのは、ライプニッツである。
この時代の論理主義が目指していたことは、〈判断〉の原器を人間から規範化されたテキストに取り返すことで、ドジソンは、〈判断〉が「ある」ならテキスト上に明示されて「ある」と主張したのに等しい。

2については、〈変数〉と〈論理空間〉のことであって、デカルトフェルマーが端緒をつけ、ペアのが整理し、ヒルベルトが発展させた、〈数〉と〈空間〉の関係に類することで、1を裏から説明している。

ベクトル空間 - Wikipedia

こうして論理学が進展して初めて、この議論に於いて、ヴィトゲンシュタインが、ラッセルと対立するのであった。3人の床屋の話も(単に「背理法」の例を提示したのではなく)、亀がアキレスに語ったことも、関係のないハナシではない。

 

(なお、参考までに、述語論理における背理法。)

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