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デカルトの観察を始めると、セットで、どうしてもカントが付いてくる。
なんなんだと思ったが、デカルトを「デカルト」にしたのは、カントらしいと納得した。チャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)を間に挟むとわかるが、古典論理ゆえのナンセンスを回避するひとつの方法として、主語と述語の分離があったのだ。
それまでは、『アリスの論理』デ宗宮喜代子が示すように、概念と実在(関係式は、概念{実在})で、我{在る}≡我{思う}という定式化で説明される。そうすると無限退行に陥るのだが(これがアリスのナンセンスを生む。)、だからアンセルムスは神を擁護できたともいえる。

それがカントの二律背反を挟んで、思う{我}と逆転するための切断を行ったと思う。
概念(主体)としての「我」から、主体から(述語のための)主語の切断を経て、対象(位置)としての「我」への転換である。

カントから

  1. 主体の孤独が始まった
    (主語を述語に帰属させることに拠る、世界からの主体の切断)
  2. 主体と主語の混乱が始まった
    (テキスト内部に混在する〈判断〉)

2に問題のフォーカスを絞るのが、実証主義分析哲学)であるようだ。

そのために義兄は内心否でないものと勘違いし、先方も見合いをしてからは、急に乗り気になって是非にと懇望してくると云う訳で、話は退っ引きならない所まで進んだのであったが、一旦「否」の意思表示をしてからの雪子は、そうなると義兄や上の姉が代る代る口を酸くして頼むようにして勧めても、最後まで「うん」と云うことは云わないでしまった。

細雪谷崎潤一郎

そのために義兄は内心否でないものと勘違いし、先方も見合いをしてからは、急に乗り気になって是非にと懇望してくると云う訳で、話は退っ引きならない所まで進んだのであったが、一旦「否」の意思表示をしてからの雪子は、そうなると義兄や上の姉が代る代る口を酸くして頼むようにして勧めても、最後まで「うん」と云うことを云わないでしまった。

細雪谷崎潤一郎谷崎潤一郎全集19巻

に直したらしい。
『最後まで「うん」と云うこと』と『云わないでしまった。』の形容/被形容の関係が逆転する。『を』に変更することで、主体性を消してしまった。
すなわち、それがこの小説の主旨である。

さて、ライバルの芥川龍之介である。
『歯車』には芥川らしく『僕は』が頻出する。

  これは一人称小説だろうか

というのが、問いである。主語を見れば「わかるか」と聞いている。
すなわち、カント的問いである。
述語に隷属する主語に「「人称」が問えるか」と聞いている。
ここに、カントによる主体と主語の混乱の始まりを見ようというわけである。

  1. 独唱
  2. 対唱
  3. 複唱(可能ならば)
  4. 三人称
  5. 四人称(可能ならば)

というわけである。
ここで、芥川龍之介の『歯車』は、対唱(所謂「2人称」)小説であり、『僕』は「貴方」に、自己対象化して、呼びかけている。しかし、独白部分がないため、独唱(所謂「1人称」)小説ではない。

なぜこんなことを言いだしたかというと、

のような書簡小説との比較である。ここで「私」と言ったところで、その書簡の一人読者である「貴方」へ向けての呼びかけなのだ。一般読者へ向けられてはいない。
このような体裁が特殊かというと、一般化できるだろうと主張するものである。
つまり、『根津権化裏』で藤澤清造は内から或る視線を常に向けられる自己を再帰的に規定して迫りくる死の倫理的重圧に苛まされた。『機械』で横光利一はそれを洗練させ、再帰的に対象化された抽象的な関係からの逃れられなさから迫りくる存在感の危機に苛まされた。「私」と「彼」の自由な入れ替わりの倫理的重圧(は「死」の重さを持つこと)にあった主体性の危機は、「人」と「数」の自由な入れ替わりの個人性の危機になった。近代(前期近代)からモダン(後期近代)へ。
このとき、芥川龍之介は、「貴方へ呼びかける自己」を規定した。もう一度、藤澤清造が前提とした、対話の関係に戻したのだ。『僕』は詳らかに貴方に差し出される。貴方から隠される「内なる私」は「ない」(あるかもしれないが、書かれない)。〈判断〉を排除して論理主義的である(心理主義的でない)。これが、波多野完治のいったところである。

  1. 『メイエルソン的な意味での抽象的知性の作家』(『大体カントの意味での悟性』)
  2. 芥川の文は細く美しい線
  3. どの文にも主語述語の関係が必ず存在している
  4. 所謂独立語とか、独立節と言うものが一つもない
  5. 「は」の使用が多いことも一つの特徴である
  6. 連体語及び連体節が甚だ少ない
  7. 文章は「僕」を中心として時間的順序に進行する
  8. (『大体副文章を伴う文章がごく少ない』うえに、)『小林英夫氏の所謂「副文止め」となって現れてくる』(が、『芥川の「言いきらぬ」文は見かけの「言いきらぬ」文』であり、『文法的には正しい「完結した」文になる』。彼の文は、ウェルフリンの意味でのバロックでなく、『「絵画的」ではない』)

(三芥川龍之介と知性的文体,『文章心理学入門』から。1と8は複数の引用文を繋いだので、それぞれの引用部分は『』で括った。それ以外は、原文のママ)

何を言っているかまるで煙の中だが、

「知性」「理性」「悟性」はどう違う? 哲学は語源がわかれば面白い|じんぶん堂

カントの「悟性」を英訳するとunderstanding(理解力)で、「理性」はreason(理由)であるらしい。何のことはない。「判断に迷わない」と言っているのである。そのために驚くほど形式に沿っているという話だ。その「形式」が「線的」であり、選択肢(分岐)がないほどの意味である。

しかし、難点がひとつできた。それが『アウグストゥス』との違いである。
反対から謂うと、書簡文で、「判断(意見)」として〈判断〉を事実化することに成功したのが、ジョン・ウィリアムズで、それに成功しなかったのが、芥川龍之介であるようだ。何が難点か。事実を逐一丁寧に積み上げるために、話が広がってゆかないのだ。
判断はある種のごまかしである。だから、飛躍ができるのだ。
芥川龍之介にそのごまかしがないのである。
ジョン・ウォリスは「名手」と言われるだけのことがある。


芥川龍之介潜在的なライバルと思しきヴィトゲンシュタインとの比較に関しては

彼の文は本来言い切ってある文なので ある。 言い切る位言い切ってあるのである。

波多野 完治. 文章心理学入門(新潮文庫) (p.150). 新潮社. Kindle 版.

これが心理学者波多野完治が分析した芥川龍之介が書いた『歯車』の文章の特徴であるが、要は、はっきり言えることしか言わないのであった。