今日の日本史


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これ面白かった。
なんで土偶と埴輪が違うのかって想像が広がるし、文学的な感性についても。

例えば、「夜」は〈ヨ〉〈ル〉で、〈ヨ〉は現象的にはアマルガムで価値認識では不穏なことで、夜に対する独特な感性を磨いてきた文化も持っている。

農耕するようになってから、夜は意味が変わったのだろうけれど、縄文人は夜にムササビを採って食べていたからね。ジビエというと、シカ、カモシカ、イノシシ、クマあたりこれはで想像しにくいけれど、よくムササビを食べていたって、骨が見つかっている。実は夜は実りの夜だったという。

ジビエとは - コトバンク


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全裸はともかく、これがフェイク(リアリティドラマ)かどうかはわからないが、夜に狩りをすることもサバイバルにとって大事。

話を戻すと、

弥生時代までに流入した、北東アジアからの人たちが、「朝鮮半島」というとイメージが固定してしまうけれど、それに限らなければ、面白い。

※つまり、このコンテンツで説明することのひとつに、「遺伝情報のつたわりかた」があって、要は、A系とB系が出会うと、(瞬時に)均質に混ざり合うわけじゃなく、中間集団を形成して、全体から見るとマダラ模様となって、その後に、また中間集団=斑模様が(徐々に)混ざり合う「展開」を言っているんだね。直感的には、{An}と{Bn}に関して、An+1=An+bn+1みたいな話だ。
文化的にも、いろいろな「まだら模様」があったと想像が広がる。均質で、均等な「日本」なんてどこにもなかったんだね(縄文時代は古代史では驚きの1万3000年もの長期間にわたって続いてそれに近づいたかもしれない)。

古墳時代は、シンボリックには、聖徳太子の登場で終わったことを考えると、

こういった影響がどこかになかったかを考える。

ちなみに、モンゴルの農耕文化は、もっと奥の黒海ほとり(?忘れた)のスキタイ人から伝わったんじゃないかとも言われていると思う。知らないけれど(1年乃至数年前、ネットでニュースになっていたような気がする)。
スキタイと匈奴 | 世界の歴史まっぷ

 

日本の「歴史」は、戦前の反省から「近代化」を意識しすぎて反対に「変」になったところもあったと思うけれど、技術的な進歩も当然あって、最近、ようやく落ち着いてきたように思う。もはや科学技術を無視できない。「戦後」は、「科学的推論」を目指したと思うけれど、「科学」にもいろいろな種類があるから。マルクス主義だって「科学」と言っていたわけだし(ただし、それは「幾何的」と言う意味と同義。すなわち、オカルト)。

 

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それで、ようやく、「近代」はポスト近世と、デカルトは「(最初の)近代人」じゃないと、数学はライプニッツが(単に記号操作を編み出しただけではなく)法学と結びつけて「論理学」として成立したと、そして、

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天皇主権説は、公訴権の確立(のリテラシーの広がり)から名辞論理で説明されると、言えるようになったわけだ。
すなわち、上杉は、デカルトと同じように、「結婚」という実在を論じていたのである。そしてそれは、「妻」「母」という具体の表現を持つと同時に、形而上的な平等(男女の機会均等)を論じることもできた。
上杉はカントを信奉していたそうである。〈主語〉を「発明」したカントに倣って、そこでロジカルな(述語を修飾する)〈主語〉を〈主体〉から分別して理論的に講ずることができた、日本ではおそらく最初期の知識人だったと思う。それは所詮「前期近代」に留まらざるを得ない限界を持ったけれど、実務的要請でもっぱら論じていた美濃部とは一線を画す発展的な議論も可能にした(「婦人問題」)。

吉野作造上杉慎吉』では「独逸學」を軸に考察が加えられたが、

吉野と言えばアメリカであって、キリスト教である。

海老名弾正 - Wikipedia

吉野と上杉の『婦人問題』の違いは、「婦人の教育」に現れる。
上杉は、ロジックが、ギリシャ的(幾何的)なのだ(論理を「国語」に帰着させてしまうと、何を言っているかわからない。このような能力を示すことができたのは後は志賀直哉である。芥川龍之介が憧れて真似のできなかった志賀と上杉は、論理的能力に関して、双璧だったと言える)。
だから、(仮に)能力の違いを現実に、、、認めても、理論上、条件を付さないで「男女の機会均等」を(当然に)説明、、する。ここで「説明」とは、すなわち、自然(世界)はそのようにできている、、、、、のだから、仕方がない、、、、、ことだ。
これは想像だが、金沢の実情、すなわち、全国で比較したときの乳幼児の生存率の顕著な低さが関係していたと思う(それを背景として幼稚園が多く進出してきた。それと県庁移転に伴う衰退があって、軍の城下町として街の再生を図る中で、宗教の諸勢力及び或いはそれらとも結びついた新しい社会運動を相対化する必要から、ヨーロッパ大陸から近代社会の「作り方」を模倣して、近世的権威への対抗権威を強く打ち出すことが求められたのではないかと想像する。ただし、前後は反対かも知れない)。

そこへ、さらに、アメリカが登場するのだ(もちろん、開国はペリーの来航から始まったのであるが、なぜか、アメリカの影響は限定的に語られてきた。伊藤博文も金子堅太郎もアメリカと無関係でなかったはずであるが)。
このとき、能力に関して留保した吉野よりも、そのような条件を排した「男女機会均等」を直言した上杉の方が、よほど民主的であったと言える。
上杉は、現在の我々が想像するのとは違った意味で、もっとも「過激」な言論人で社会運動家だったのだ。
そして、加賀(大聖寺)の人間らしく、戦術的に敗北しても、或る意味で、戦略的勝利を結果として収めたと言える。それは軍を通じた「地方からの民主主義」である。
しかし、それは内部に「新しい地方(軍閥)」を指揮する石原莞爾という遅れてやってきた「例外」をまた作った(主流派の梅津には歯が立たない)。