廃校していた13

 

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こうやって、それぞれの論争を通じて、上杉(「婦人問題」)と美濃部(国際法解釈)を見ると、2人の資質の違いがうかがい知れて面白かった。

これなら、この2人は、話がかみ合わなかっただろうと思うのである。
なるほど、これが、『吉野作造と上杉愼吉―日独戦争から大正デモクラシーへ』で言及される古きよき時代の大学の雰囲気であって、上杉と美濃部は、芝居を見に行く仲で、問題によっては駆けつけて団結し、ともに運動する仲だったのであるが、やがて、これが学閥闘争として過激化してゆくのであった。

これは藩閥に学閥がとってかわる中で自然な流れであったようだ。
「学閥」とはまさにそういうものだったのだ。

※ただし、藩閥に関して、大学では、出身母体で均衡を採られていたようだ。それが崩れるのは、大学の卒業生が官界を充たし始めて、美濃部による口説を弄した議会の篭絡(と枢密院に影響力を持った伊藤巳代治を脅して憲法の正統性を転覆する、法学的クーデタ)が達成される頃ではないかと思うが、如何。美濃部はやっぱり庶民の出だったのだから「強訴」を辞さなかったのか、これが方法論としての「軍閥の素」であるし、係る突き上げは軍の中でも(官僚でも組合運動として)常態化したようだ。『吉野作造と上杉愼吉―日独戦争から大正デモクラシーへ』では酷く「虐め」られたことで(上杉の弟子が)怨恨を抱いて復讐を成し遂げたと捉えている。

日本の民主化は多様なチャンネルを通った流れの収斂として見られるのだ。
それでは、上杉が美濃部と同じくらいに寿命を保っていたら、どうなっていたか。
おそらく、美濃部と一緒だっただろうと思う。
「オールド・ロイヤリスト」か「オールド・ナショナリスト」とレッテルを張られて儀礼的以上には見向きもされなかっただろう。
美濃部が「オールド・リベラリスト」だったのは、戦後に限った話ではなかったように思う。