?「学術上、クマンバチは飛べない。それを知らないから飛べるんだ」は「コピー」なのか?
コピーって何?
こういった発想自体はありふれているが、聖書のもじり※とも見えることが味噌だろうね。つまり、極めて、「実証的(テキストに関してメカニカル)」だ。
学術上、クマンバチは飛べない。
それを知らないから飛べるんだ
でもここに物語がある。
※スマリヤンの『ぬきうちテストのパラドックス』に似ている(つまり、アンセルムスの「神の存在証明」のもじりだ)。
合理的に考えるならば、テストは行われない
それを知らないから、毎日勉強するんだ
想像上の神が居るならば、事実上の神は居る可能性がある
神はもっとも大きい
スマリヤンの様相論理体系K4の面白さは、「嘘つきのパラドックス」(クレタ人の嘘から自己を含む集合の再帰性へ)では、アルゴリズム上の(認識)順序に過ぎなかったことを、主語に帰着させて、その観察者たる主体もテキスト上同列に並べ記述したことだ(主体の関係として記述することで、ただの認識から、展開される各項となった)。主語(X{})の自己言及を主体(Y{})の自己言及に置き換えるための操作を「信念」(ある種の関数概念)と呼んだ。
実は3文とも
【クマンバチは飛ぶ】
【テストは行う】
【神はもっとも大きい】
の宣言文の解釈を取っているとき、解釈を可能性として表現している。
最初の「コピー」を事実から考え始めると不思議な味わいになるが、これが「聖書のもじり」と考えると※、宣言文の解釈になる。
※こういったアイデア自体は古今東西ありふれていたが(有名な例はスイフトの『ガリバー旅行記』だろうが、日本の滑稽本、古典落語にもあったと思う。原型を探れば、古代からあったのではないだろうか)、「宣言文」として捉えたのは、アンセルムスが最初かも知れない(信じる神から理解する神への画期。この点、高橋の説明はわかりづらく、ラッセル同様、存在と認識がごっちゃになった説明をとる)。
こうしてわかったが、これが重要なのは、実証主義とも関係しているが、解釈主義とも関係しているからだ。
ドウォーキンはどうも、クマンバチ問題をユニコーン問題と区別する「決定」を重視したようだ。
それに対して、アンセルムスが信じたのは、キリストによる救済であり、それゆえの(事実として存在する)キリストが神であることである。
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「論理国語」を考えたときの、議論の貧しさには考えさせられるのは、こういった理由だ。
ハート=フラーの議論は、戦後世界の価値観を決定するうえで重要な役割を果たしたはずだが、特に「ナチス」に関して「無頓着」なのは、エリート間でこういった理解に対して距離があるからでないのかと思う次第である。
それはただ法学の理解にとどまらず、戦前の文芸理解とも関係して、いまだに「論理国語」の題材に『羅生門』しか選べない理解の偏りであり、戦後教育のイデオロギーの根源が明確に戦前にあるのみならず、それを翼賛しているからである。
曰く、戦前が「間違った」のは「家父長制イデオロギー」とそれへの盲目的な信仰のせいであり、「科学」がそれを打ち破ると信じたからである。
しかし、法学が明らかにしたのは、「合理的主体」に横たわる存在論にその危険が胚胎していたことであり、もっぱら主体的に考える限りに於いて同じ轍を踏むことの説明である。
今なら、例えば、(ハート=フラーの「ナチスの悪」の議論を踏まえるからこそ)所謂「従軍慰安婦」問題は外交的には解決した、と言い得るのは、なぜか。
しかし、日本で好まれるのは、「ナチスの惡」の議論をしないことであるのは、なぜか。
まずは、戦前の優性思想に彩られた自然主義文学を読めばよいではないか。
話はそこからである。
「論理国語」とはとりあえず、日常言語学派のことである。
一方で、(日常言語を腐すところから、おそらく)理想言語学派に属する石川史郎は、さらに記述言語を、論理的言語で科学を記述するためにこそ、科学的言語と分ける。それが「論理国語」にはできないことだろう。
「論理国語」は
- 科学的リテラシーの向上のため、ばかりではなく
- プログラミングを理解するため、ばかりではなく
- 法律文の読解のため、ばかりではなく
- 従前の文学の読解で間に合うこと、ばかりではなく
- 専門的な批判(理論)を学ぶため、ばかりではなく
じゃあ、なんだ、ということである。
それをなぜ、戦後教育がわからなくしてきたかが大事である。
クマンバチは鳥とは異なる方法で空を飛べるということである。