そしてアドは後期ヴィトゲン哲学にも同種の「驚きの感情」を見出す
— 諸隈元シュタイン (@moroQma) July 1, 2022
その手がかりとなる言葉がゲーテに由来する「原現象(Urphänomen)」
って話も古田先生の解説に載ってるから、本書の理解に困ったら、まず解説を読みましょう
それを手がかりに『哲学探究』の見通しも鮮明にhttps://t.co/ARfOjHyG89 pic.twitter.com/qQFRjGIfIa
なるほど、ゲーテか。
ゲーテはよくわからないけれど(そもそも「よくわかっている」ことがないけれど。)、確かに「なるほど」と思った。
パッと見、プラトンの強い影響を感じたが、間違いだったろうか?
西洋の思想史におけるゲーテの位置づけ(その一). ルドルフ・シュタイナー. 溝 井 高 志訳
ただ、デカルトへのpage8の説明は、近代からの転倒した「解釈」であると思う。
少なくとも、アウグスティヌスを引いていてなお、近代的な自由意志とキリスト教の自由意志論が混在しているように感じる。デカルトはもちろん、後者である。
だから、すべての議論が転倒していて、「矛盾」的な様相に見える(そもそも、デカルトは、曲線論、光学論などを著した「本論」のためのガイドとして「序説」を書いたのであって、「序説」ありきの議論の進め方が、カント的な意味で、転倒しているのだ。「序説」の意味は、「本論」の意義としてすべてが回収されなければおかしい。でなければデカルトは矛盾したことを言ったことになる)。
別の言い方をすると、ここでは、パスカルのデカルトへの抗議(以上の、排撃)が、無視されてて不自然である。パスカルが言ったことが、「人間は考える葦である」という、スコラ哲学即ち(新プラトン主義とも関係が深い)スコラ哲学の本流(以上の原理主義)である。見方によっては、パスカルと「我思うゆえに我あり」がどう区別されたかを理解することが、デカルト理解の「矛盾」を解く分水嶺になると思う。
デカルトやパスカルがキリスト教徒である限り、異教のイデア論に直接悩むはずがないのである。だからこその、デカルトの実在論だったが、明証のために異端な(即ち、異教的な)媒介主義を採ったため、パスカルが「異教徒」と怒ったのだ。ギリシア哲学は胚胎しても顕在化させては(考えては)ならないのだ。その禁を破ることから、スコラ哲学的な自由意志論から(ルネサンス後に)近代への自由意志への飛躍が始まったようである。デカルトはその直前の人物である。
おそらく、それは、そのままゲーテ理解へつながる。
さて、その矛盾である。
ヴィトゲンシュタインと、「原植物」で意見を異にしたようだ。
ラッセルに先駆けて同時代、リシャールが1905年に考案したパラドックスにこんなものがあったらしい。
(P166,『数学100の発見』,数学セミナー編集部,日本評論社)
これはどうもベリーのパラドックスでないかと思うが、如何。
ベリーのパラドックス - Wikipedia
リシャールのパラドックス - Wikipedia
- (T⇒F)⇒T の論理演算の帰結が ⊥(矛盾)
- (T⇒F)⇒F のとき、1ならば、論理演算の帰結が ⊥(矛盾)
- ⊥⋀¬⊥ は ⊥ であるから ⊥ ⇒ ⊥ は自己再帰的にも完全に成立する
と言っているように見える。これは、ドジソンの「3人の床屋」の議論と似ているが、ドジソンの場合、1が真(で2が矛盾)だったのである(それによって、ドジソンは背理法を主張した)。
途中である。
やはり、ドイツ人の言うことを聞くには、「美濃部達吉は騙された」「上杉慎吉は「騙された」ことに気づいた」ことに、よくよく注意しなければならない。
学術に通じているように見えて、そうでないときも、あるのだ。
ちなみに、美濃部は後日、(直接師事しなかったことに)すこぶる後悔した。
騙されたことに気づいたのである。
学問に通じているかよりも、学問への通じ方に注意が必要である。
悪い言い方をすると、彼らの「はったり」を心得ておかなければならない。