今日の社会

憲法における同性婚の法的解釈はいろいろありますが、憲法学者の素直な読みかたは、法的なトレーニングを受けていない人にはなかなか難解です。

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『法的なトレーニングを受けていない人には』とは、良いところに気づいたと思う。

でも、『法的なトレーニング』というのが、イメージとたぶん違うと思う。

むしろ、出発点は神学に近いところだけれども、木村草太がそれを形式論理にきちんと起こしているから、不明だ。

木村が何を言っているか。

 

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ここで試してみたけれど、「可謬性」のことだ。
ここで私が説明したのは、「1個あって60円」だから「1個ある」と読んだ、ということではない。「1個につき60円」であることを二義的な可能性としてとりあえず()に入れ、「ある」の「可謬性」から、それを1個と判断するのが「間違いではない」と言ったのだ(この場合「2個だと間違いになる」☟1)。

 

ここで木村が「文言から」と言うことで、批判しているのは、直観主義乃至経験だ。
具体的に言うと、経験に照らすならば、「両性」とは双数であってしたがって、、、、、、「男性と女性がいるとき、その対を示す」と解釈するのだが、憲法には憲法の「(独立した数理がある」と暗に言っているのだ。憲法である以上、経験にではなく、数理に従わなければならない、というのが、木村の主張の本質だ。

※ 双数形 - Wikipedia

喩えるなら、憲法純粋数学で、演繹的な、文それ自体の規範力から判断できる可能性の技術で、法律は応用数学、社会経験に照らした実際的な可能性の技術だ。

「国」が言っているのは、婚姻は政策である、ということである☟2
穏当な解釈ならば、立憲主義に立って、木村がもう一方で謂った「経緯」から、消極的には、大家族(における戸長)の排除と(「契約」と考えるかはさておき、個人主義:個人の尊厳に根差す当事者主義であって、憲法第13条の反映)、積極的には(憲法第  13条の反映ではなく)この条文自体が男女の平等を謳っている。

木村はここらへんを明言しないが、「個人」を「数理」に対応させる以上「反映」とみなす立場だろう。それは「男女」に限らない点からも(その立場が)擁護されるはずである。

木村の主張を見たときに、「文言」と「経緯」を分けているが実は、(文言のうちでさらに)「経験」を分けていることに気付けるかどうかで在り、彼の実証主義が、ヨーロッパに近いことを伺わせるものである。


☞1 「2個につき120円」の場合に、前段の「ある」の判断を踏まえたうえで、二義的な可能性を導引することとなる。
この「ある」とは自然数を前提としていることについて十分話者を信頼することとなる。自然数である場合に限り、自然数の定理により、可謬性が論じられようになる。

それぞれの自然数を明記しようとするならば、その数より小さい自然数全てを要素とする数の集合

ペアノの公理 - Wikipedia

具体例を挙げると、この順次内包する自然数の定理に従うならば(2は1を含意し、3は2を含意する。)、仮に、2個であった場合に、1個である場合が例外(間違いの可能性を含意すること)となるので、唯一例外(間違いの可能性の含意)を設けないのは、それが1個だけのときであるから、1個であることが信頼できる(間違いのない)可能性として指示されている、という理解である。
反対に、それが2個であった場合には、(別に、)話者の責任とする、ということである。ここに、特段の指示として、「2個につき」が受け入れられることとなる。

したがって、裏から〈主体〉を導入しているはずである。この点をついたのが、戦後の実証主義者ハートらの議論で、彼らによって、戦前に合法であったにも関わらわずナチへの協力者を戦後処罰することができるのか、と鋭く問われることとなった(戦後の、ヨーロッパ的な実証主義者然としている、木村の面目躍如といえるかどうか
したがって、木村の議論は、実証的であるがゆえに、この論点をどうとらえているのかになるが、おそらく「問題は生じない」と答えるだろう。それは「良心に照らす」とほぼ同義で在り、本来、素朴実在論乃至素朴な感情論を政治的にboost(後押し)するがゆえに暴力主義である共産党と異なる主張であるはずが、結論が同じになる所以である。

※ アメリカの実証主義は、より経験的である。ハーバート・ハートはドイツ人とポーランド人を祖先に持つイギリス人であって、オックスフォード出身である。

ハーバート・ハート - Wikipedia

木村草太が実証主義者を自認、自称しているかは知らないが、日本の法学理解の伝統を踏襲してなお戦後の議論も踏まえているだろう(おそらくだが、ヨーロッパ寄りに)。

 

☞2 実は憲法第9条とも関係がある。あれも一読すると、「ただの政策」であるからだ。
個別の政策を、憲法に—特に日本国憲法の特筆すべき性質として、民主主義を信頼に信頼するがゆえの、極めて単純な構成となっている点が挙げられ―、憲法に書き込むこと自体がナンセンスである。

政策としての自衛隊が合憲なのも、消極的に憲法がそれを認めるからで(政策議論を排除して、憲法憲法たるところ、権利の権利たるところから出発する。)、この場合、婚姻が合憲なのも、消極的に憲法がそれを認めるからだとの論証を暗に政府は主張しているのである。